「何んにもこっちにはいらんだけのう」

とりあえず確定申告をすました。

いろいろな経緯からマイケル・ポラニー『暗黙知の次元』を再読している。
この頃昔の本を再読することが多くなった。一つは内容をさっぱり忘れていること。
もう一つは、最初に読んだとき理解できないところがたくさんあったこと。
だから再読といっても図にしがら、書き込みながら、線を引きながら読んでいる。

「悟りのその瞬間を表現することは「暗黙の知」の次元である。」

今日はプチ法話会。8名の参加。初参加の方1名。
明日死ぬと思って生きよ  (私たちはたとえで物事を理解する)
の源左さんと直次さんとこのさんの対話部分を読み取ることをした。

直次さんはどういう人か?(年齢、性格、仕事は、思想と行動は、家族、奥さんは?)
端的に言えば私たちと同じ人。
源左さんと同じくらいで友人。病気で寝込んだが奥さんは先に亡くなったと思われる。
娘のこのさんの世話になっている。このさんは篤信家だが、直次さんは念仏を称えたことがない。寺で法話などを聞いてきたが、自分のこととは思って聞かなかった。
一応念仏すれば浄土に往生できると知ってはいるが、このさんが念仏することを勧めたが直次さんは頷かない。腹に入っていないということを自覚している正直な人。
そして、娘を何度も源左さんのところへ行かせ、それを聞いて真剣に自分で考えているまじめな人。だけど、娘から見ると念仏が出てこない人。
源左さんの家は遠い。というのは源左さんも寝込んだとは知らなかったから。
念仏を称えれば良いところへ往けると知っているが、念仏を称えることはできない。
ところが源左さんは称えんでも良いと言う。助かるに決めて貰っとるで念仏は往生のためにはならんと言う。そう言われて直次さんは混乱する。
じゃあ、篤信家の源左は喜んどるかと聞く。源左さんはしんどくてそれ所じゃないと言う。直次さんはますます混乱する。そして親心がどうしてわかるのかと聞く。このさんはこっちが知ったことではないと言う。じゃあ、源左は身体がえらくても喜んどるのかと聞く。源左さんは親さんがすでに助けようとしとるからわしらができることをするだけ。このまま死んでいきさえすりゃ親様の所だと言う。
それを聞いた直次さんはまだ腹に落ちないが自分でよく考えてみると、そんなありがたいことならお礼を言いたくなるが称えさせてもらっても良いかと聞く。それを聞いた源左さんはこっちには何にもいらんと喜びが湧き出てきてようこそようこそ、なんまんだぶなんまんだぶと称える。源左さんもうれしかっただろう。

これを一緒に読み取るプチの法話会の9名のこの場にこの三人の世界が現れてきた。

その後、お寺で法話を聞いても、隣の人と話のは世間話ばかり、こんな仏法の話をお互いにする場がない。お仏壇の前で念仏をするけれども、恥ずかしいと思うのは一瞬。
どう考えたらいいんだろうかという問題提起をされた。
その話で盛り上がり、時間が経つのを忘れてしまった。

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