月一回のプチ法話会
6名の方の参加で、いろいろな話が出た。
私の話が終わってから質問をされた方がいる。
欲生我国の我国についての話の中で、誰にも代れない「我国」があり、
その「我国」を清浄にして下さるのが、仏とお浄土であるという話をうけて、
「私の心はちっともきれいでない。
感謝しないかんと思うけど、そういう心は生まれてこない。
愚痴がでるし、腹が立つし。それではいかんと思うけど、直らない。
このままではお浄土へ往けない。
どうしたらいいのか。」
と尋ねられた。
それに対して、みんなで意見を出し合った。
まず、そう思えることが素晴らしいという意見が出た。
きれいでない、感謝しなければいけない、愚痴を言ってしまった、腹を立ててしまった
と感じる心は、仏様の光があたっていることだ。
次に、きれいにしようと思ってもできない。
でも、そういう私たちであることは仏はとうの昔にご存知で、そういうものこそ救うという願を立てられた。
例えば、人が溺れているアリを救おうと棒を差し出したとき、アリには橋を渡す人間は見えないで、棒しか見えない。このアリが私たちだ。
私たちには見えないけれど、確かに救う働きがある。
気づかしていただいたことは感謝できる。
それを気づかずに生涯を過ごす人もいる。
そう感じたら、あとはおまかせ。
そういう時にお念仏を称えるととても楽になる。
お念仏が、きれいでない私たちを救ってくださる。
聞いていて、なるほどと思うことばかり。
そう簡単に、納得することはないと思うけれど、ここにも確実に念仏のはたらきがある。
帰りに、32歳のお母さんの遺言書(祖母の)をいただいた。
32歳で、なぜこのような境地に達することができたのか
見事だと感じる。