浄土の慈悲

まだ出血が止まらない。
これが心配で連れ合いに不安を話して、より心配をさせるという悪循環を重ねている。
凡夫の所業は凡夫からみたらあきれるだけだけど、仏様から見たらそういうものだということだろう。

一か月ぐらい前に弟から、歎異抄の4条だけは納得がいかないと聞いた。

慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと

あはれみ、かなしみ、はぐくむしかできない私(凡夫)であることは重々承知している。願うとおりに助けることができないこともわかっているけど、そうしてしまう。
だから、それを否定して浄土を求めるのは、仏の大悲ではないのではないかというのが弟の言いたいことであろう。そして、それは私の疑問でもある。

入院中に若松英輔氏の『NHK「100分de名著」ブックス 石牟礼道子 苦海浄土―悲しみのなかの真実』を読んで何度も涙を流した。
水俣のこの子どもたちと親たちの悲しみはいったい何だろうかと。
若松さんが石牟礼道子さんに質問をしている。このものがたりをどう感じながら書いていたのかと。その返事は「荘厳されているように感じました」。

この深い悲しみから「荘厳されている」とはどういうことであろうか。

この中に水俣病の孫を残して先に往かなければならない老人の悲しみの言葉がある。

 杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす。耳だけが助かってほげとります。何でもききわけますと。ききわけはでくるが、自分が語るちゅうこたできまっせん。

なむあみだぶつさえとなえとれば、ほとけさまのきっと極楽浄土につれっていって、この世の苦労はぜんぶち忘れさすちゅうが、あねさん、わしども夫婦は、なむあみだぶつ唱えはするがこの世に、この杢をうっちょいて、自分どもだけ、極楽につれていたてもらうわけにゃ、ゆかんとでござす。わしゃ、つろうござす。

 そして、孫の父も水俣病で、家族が病故差別を受けており、わしが死ねばこの家のもんはどうなるのかと悲しむ。ところがこの祖父は何も言えない孫こそが仏さんだというのである。これはどういうことであろうか。

この第4条についての瓜生崇師の仏(浄土)の慈悲と智慧についての法話がある。

 

振り返ってこちらを聞く。 

「かわりめあり」という言葉は、つながり変わっていくということを示している。 

聖道の慈悲 ⇌ 浄土の慈悲

   智恵 ⇌ 慈悲

     この矢は対立ではなく相依相関を示している。