郡上組連研「戦争をなくし、平和を築きあげるにはどうしたらいいか」

安楽寺様で10回目の連研があった。
テーマは「戦争をなくし、平和を築きあげるにはどうしたらいいか
問題提起は、歎異抄第13条「わが心の良くて殺さぬにはあらず」
を紹介して、私たちの心と世間と世界の間の関係とあり方を考えてみようと話した。

平和とは何か、なぜ戦争が起こるのか、私たちに何ができるのか、
5~6名の3グループで、いろいろな話し合いができた。
図にすると

 欲望 正義 違い 儲け
   ↘ ↓ ↓ ↙
     争い → 話し合い
      ↓
     殺し合い → 戦争

一番印象に残ったのが、
普段こういう話し合いができない。それをこうやって取り上げてそれぞれの違う意見を述べ合うこと、聞きあうことが新鮮であるし、大事なことだという意見。
そもそも身近な家族や職場でも争いが起こるときがある。その時にこうやって話し合う場があれば問題の解決も見えてくる。
連研という場で、戦争について、平和について話し合うということができるということが大事だ。話し合う場があるということが、意見の違いを越えて必要ではないか。

意見の違いよりも同じテーマで話し合うことが新鮮であるととらえて、それぞれが自分の思いをいっぱい語りあったことが面白かったという意見は、考えさせられた。

こういうテーマで家族の中で、子どもたち、孫たちと話し合ってみたいと。

まとめは最勝寺様にしていただいた。

人の痛みに気づく人こそが仏教徒である
『浄土をめざして生きていくとき、自分のつらさを通して人々の痛みがわかるような人間に変わっていく。そうでないと、如来の大悲に呼び覚まされたとは言えないでしょう。
仏教とは何か。それを一言で言ったなら、「人の痛みのわかる人間になれ」ということです。それが「学佛大悲心」でしょう。いわば、人の痛みのわかる人間になり、そしてその痛みに共感しながら、ともに、一つの方向に行こうということです。
ある意味で、大悲心のない者に浄土は開けないということです。だから「凡夫」という響き、「煩悩具足の凡夫」というような言葉の持っている響きとは、「悲しみ」であり、「恥ずかしさ」なのです。「凡夫だからしかたがない」という言葉は真宗にはない。浄土真宗には「凡夫だからしかたがない」という言葉は存在しないのだと言った方がいいのです。「凡夫」という言葉は、何の痛みもなしに使う言葉ではないと思います。宗教の世界というのは、痛みをもって使ったときにその言葉は響くけれども、そうでなかったら全くその響きも意味も変わってしまいます。』 梯実圓師