信仰は集団的なモノ

午前中孫の守。午後は連研。

連研も11回目を迎えた。
今期はコロナでの休止もあり、参加者ははじめと終わりではかなり変わっていた。
人数がぐっと減ったのだ。

連研ノートを使っての話し合い法座を中心に行ったけど、テーマが抽象的すぎるという話が出た。もっと身近な具体的なことの方が良いということだ。
でも、話し合い法座そのものを拒否するような話は出なかった。

このことは「信仰は個人的なモノではない」ということを示していると感じた。
信仰は集団的なモノであり、話し合いや、集団的な儀式を伴うモノなのだ。
「個人のモノ」というのは信仰の自由においてはそうだけど、同朋と共に話し合うというのは浄土真宗の最も基本だ。

今期の連研(4年越しの)で初めて話し合い法座を持ったけど、やってよかったと持っている。
「孫や子が帰省すると自然に必ずお仏壇にお参りする」という話が出た。ここにこそ本当の信仰がある。