「鎌倉殿の13人」を見ていると思わず笑ってしまう。(千葉常胤は東氏の先祖)
ところで、当時の所領をもっていた武士とはどういう存在だったのだろうか。
武士はなぜ簡単に首を取るのだろう。
今度の土曜日の高鷲古文書を読ままい会で「長善寺文書」を読み始める。
そのキーワードは「御家人」「下司」「地頭」だと思う。
荘園→本所→領家→下司→(御)家人→地頭→守護⇢大名⇢・・・
この辺の経緯も複雑だ。そもそも「武(士)者」とは何か?
上の「鎌倉武士」についての記事は参考になると思う。
そもそも中世の武士はなぜ所領に固執したのか。
他の所領をどうやって奪おうとしたのか。
そこにはこの列島の土地の所有制が根本にある。
そして、そこに「武士」が出現した理由があると思うけどそこも不思議だ。
土地の私有をめぐる争いはそれを納める権威が必要となる。
そうでないと血を流す争いはいつまでも続く。
それが律令制を基本とした天皇の権威だろう。
守や介、左衛門などの官位がそれを象徴しているように思う。
律令制(養老律令)によって公地公民をうたうけれど、その原則はわずか25年で破棄され、「墾田永代私財法」が出される。
つまり理念(たてまえ)以前に、この列島はまだ開発されていなかったことになる。
この列島の歴史は農地開発の歴史であり、土地を開拓するというディベロッパーの歴史である。(でも武士がディベロッパーとは限らない)
では開拓した土地は私有できるのか。これはそう簡単な問題ではない。
結局「土地の私的所有を国家が法的に公認する」という体質が「土地の排他的な私的所有」という権力構造の原理となる。
たぶん「鎌倉殿」は「御成敗式目」をつくることで終わらせるのだろう。