高鷲古文書読ままい会・長善寺文書開始

参加者は9名。ワクチン接種の後に熱があるので休みますという方がいた。
初参加者一名。

最初に経過報告。
・高鷲古文書読ままい会のアクセス数は2月で120カウントを超えた。子ども向け鷲見大鑑は36カウント。
・鷲見城の落城のエピソードは、稲葉→遠藤と変わる中で、郡上藩の中にトラブルがあったことの一つではないか。
・連絡網はCメールで行ったけど、LINEにした方が良い。
・鷲見氏820年という時代考証は正しいのかどうか。

内容は長善寺文書の説明から。
中世の下文や切り紙などの写しである。長善寺に伝わった経緯など。
(1)系図の説明と最後の受け取った人のことを読み取る。
(2)17番目の文書を読んで、これが一番古いもので、北条時政からの下文ではないかという考察をした。
(3)最初の1番目を読み解く。承久の乱のことを述べたもの。
ここで、美濃はほとんどが京都側に味方したのだけど、どうして鷲見氏が関東方に味方できたのかという疑問が出てきた。
この考察の中で、当時の所領争いの複雑さが出てきて、坂東武者もほとんどが平氏であったけど、平家からの国司守や介の介入がありそのトラブルで以仁王の令旨がお墨付きのようなものだった。それと同じことが美濃でもあり、17番目の小島氏との争いの中から関東方についたのではないか。実際小島氏は京都方について討ち死にしている。

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郡上太郎・郡上三郎・郡上藤三郎という名前であること。地名から名乗っていた。
最後の長山彦五郎と郡上中務彦五郎は同一人物ではないか。
重保と家保は出家していること。
加々丸が中務少輔という官名を貰っていること。
保憲の康安二十七年死去というのは? 彼はこの系図のどこに位置するのか?

⑰ (袖書) (鎌倉下知状か)
 此の重保は相伝御家人ゆえ、不代時一の入見参朝夕之労令候。安堵し、小嶋懢妨
 甚(はなはだ)不穏便せし 左候故(この部分が意味をとれない)
郡上太郎重保、重ねて申すの状、此の如き、小嶋三郎懢妨慥かに停止、之を安堵せしむべくの旨、先度下知了、而猶不承引にて何様事哉、早糺迫損也、本の如く其身安堵せしむべくの由、仰之状下知せしむべく如の件し。
  三月十五日    後書判
  遠江守殿(北条時政カ)

年号が書いてないのが残念!