鮎走村由緒略記

道路と電線にかかるクルミの木を切り倒した。
到底一人では無理で、弟と一緒に切った。
二時間以上かかったけど、出来た薪は二日分しかなかった。

昨日たかす古文書読ままい会があって、新しい文書を読み合わせた。
今日は昨日読めなかったところを何度も挑戦してみた。
何か所か̻▢が消えた。
途中のところはコピーの資料が消えているところ。
鮎走村の歴史を百姓の立場から記録したもので、江戸時代の宝暦の頃のもの。
とても面白い。

完全な資料を読んで翻刻も完全なものとしたい。

由緒略記

美濃国郡上郡鮎走村之由緒を尋ぬるに其大古は不分明なる事なれ共、人皇十四代顕宗帝の御宇に、宮人連人といふもの、帝の御気に遂げず依て流罪として此處に隠退して、獣畜を猟して活生を営みしに、人数も次第に繁昌して三十七代の帝孝徳天皇の御宇、洪水の災ありしが、不思議にも鮎魚其庭中に游水せるあり。其魚を生きながら都に奉献しけるゆへ、帝(みかど)大(おおい)に喜ばせ給ひて、其處を鮎走りいふ。當時、僧道昭といふもの諸国回国して仏教を弘むるによりて、村内の人々敬法者ありて、既に拾五人佛門に入り、房を建てあるものありける時、帝元明帝の命勅に依て、越国白山開基釋泰澄、當所に仮宿して人々を先誘して開山を催しける際にも、仏法繁昌神祈の術盛んなりける事は前代如し。然るに此頃、都粟田口平朝臣大納言光盛卿の家臣芥見の左少弁様より男女壱人に付、布にて
仁明帝の頃に、伝教師の弟子連浄和尚当地へ回り、永々休息中近在に法を弘む。朱雀帝の御宇、相馬左近といふ人、粟田口家に變代して領主といへども、旧の庄司芥見家をしたひ、人々願ひを以て本主を旧の庄司に願ひ、布税を免じて地の貢計りになりし事、数百年の後、平家の朝臣盛光卿の御本領と代りしも、二十二年を経て家臣逆事に付、内乱の際、源家再び諸国を治に付て・・・(切れて見えず)守護職の治ふる處・・・(切れて見えず)
然るに又元弘より建武の節、都に戦ひ休む事なく、国司家も罪を得て諸国漂泊の際に、土岐家の若君花若といふ(後に是をとき丸といふ)老臣鷲井といふもの隠したて、郡上郡の山中、後に雲が嶽といふ山麓に岩穴あり、是に隠居して花若丸を食さしめしに鷲の餌ばみを見つけ、尊氏公より其有家を捜して、遂に其宿鷲見村山の口才三郎といふ大家にて酒會を催して、公方より鷲のありけるを表して鷲といふ。又芥見の見を入れて鷲見といふ。帰りて向鷲見に至り、岩高小左衛門といふ大家に休息せしに、都より勅を以、花若に□□の權の守を給ひて、東の前谷村、鮎走村、正ケ洞村、中切村、穴洞村、西洞村、鷲見村迄當馬の飼料に切立新田を添へて、康安元年(一三六一年)城形を築きて是を鷲見殿といふ。其頃、百姓二十五人、寺院社堂二十五宇ありて、其後は鷲見氏の子孫十三代連続してありしが、天文より上方乱にて貢税繁多、人足の徴毎分なる事云にしのびず、永禄中寺院焼亡、社寺の形滅して山野となり、天正・文禄・慶長の頃も末戦ひの事多き故に人足一方ならざるゆへに家並人足の番を順して戦場に出陣せしめしに、村方も五六人づつ、毎年大坂行き或は小田原行といふよふに、実に人々心を苦めしに、元和より将軍家の御慈悲にて太平なるも、寛永の頃田地の検地あり。高税米を附せられ領主を敬ひ御高札の面を守らんものは登科に取扱われ、民間至極困渋に候處に、萬治より寛文年中に、又東家の枝族遠藤家より検地の事に付其節、高に定米を附して毎年其餘不は上納させる事無之様、御家老中の判形を以、郡上中の百姓高定帳を定めらるる節、当村に住して田地を持ちし者の寺社家共に五十三人永く民百姓安堵仕、遠藤様御家永々相続き度様神祈仕度處、御一子岩根丸様御誓去に付て、旧国司御来孫金森御家飛州より御城預かりとして御支配地なり。

  東家の時
村中上納金壱軒に付壱両
男二十五才以上五十才以下
    人足壱ケ年一日づつ
  但東家は国司土岐家に代りしには非ずして郡上郡の地頭に、本国下総なり。

東大膳太夫光頼八代千葉胤年孫遠藤と改め地頭となりしなり。
  又南北両朝に別れ北条滅亡の後十三年間足利家の押領となりしを康安年中義詮公民安堵を鎮静せる為、高に五掛けの貢物を定めらる事百三十年なり。

豊臣御家
  検地御改定米を定む、其来年三ヶ年無年貢同前に願う事。

東照公寛永の頃に御検地なり。笠松御陣屋也。
御支配の東・遠藤奉御領主に貢米を上納仕候。