古文書読ままい会で「鮎走由緒書」を読んだ。
①まずこの記録が宝暦2年に書いたということ。
ところが最後に宝暦騒動での鮎走村の斬罪人の記録が書いてある。
この判決は宝暦8年に出ている。
しかもその後のところが墨で塗りつぶされている。
これはどういう意味を持っているのか皆さんに意見を言ってもらった。
②そのあとがきの文章が突然乱れて読みにくい。
このあとがきと悪戦苦闘している。
③この文章の上に注が書いてある。
この註がとても面白い。
例えば、「下地下」という地名は「干地家」で、沼だったところを干してガヤ畑を作ったとある。
これは以前書いた干田野が大きな沼だったと同じだ。
鷲見郷の開拓の歴史は明治以後だけではないということがわかる。
④応仁年間足利公方の戦費を出したとある。
これが段銭の事なのかはっきりしないが、
天文21年に足利義輝の水帳改めがあったと書いてある。
どういう経緯かわからないけど、郡上の上保が将軍家御料所だったという妙心寺の記録の現地の証拠になる。
さらに鷲見郷が上保に含まれるということの証拠になるのかもしれない。
⑤戦で徴収された人足の名前もちゃんと書いてあり、大事な記録だと思う。
こういう記録をずっととっておいたということがすごい。
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