同窓会の打ち合わせをホテルで行う。
畑の作業、支柱建て、草取り、水やり。
『斎藤妙椿・妙純』横山住雄著を読みながら、合間に『郡上郡史』や『白鳥町史の長滝文書』を調べる。
横山氏の調べ方、論考の仕方に感心する。
在職中にも退職してからもこの地道なお仕事を重ねられたのだろう。
地図に承久の乱から船田合戦までの戦場と守護代斎藤氏の菩提寺を書き込む。
妙椿は浄土宗の僧侶で、守護土岐氏よりも官位が高かった。
革手城の位置が地図に書き込んでみて初めてつかめた。
斎藤氏の菩提寺は禅宗の寺院で、妙心寺との関係が深い。
郡上郡上保が室町幕府の御料所だった時期があることを知る。
特に義政が妙心寺にこれを寄付したという記録がある。(妙心寺の文書)
細川勝元→斎藤妙椿→斎藤利藤→大島弾正忠利堅、(応仁から永正の間)
上の保は山田庄以北で長龍寺の寺領だと思われる。
この現地の代官が「大島弾正忠利堅」。白鳥町大島と関係があるかも。
ちなみに宝幢坊文書の享和三年の記事に
「山田庄は五町近所より鶴来近所まで七八ケ村の内か」
「上保と称するは、中津屋和田川より奥、往古長滝寺領の事と見え候。永正の頃斎藤家より当寺へ下され候制礼掟書にも、郡上郡上保長滝寺とあり(下の利綱の文書)・・・
鷲見郷は鮎走より八ケ村なり。・・・」
この本によって、鷲見家史蹟にある汾陽寺文書の鷲見直重が出した手紙の相手「弾正殿」が誰であるかがわかった。⇨ 汾陽寺文書
それは斎藤弾正忠利綱。直重とは懇意である。
この利綱の文書が長滝寺にある。
「郡上郡上保 長瀧寺
一 長日勤行をもっぱら国家安全の御祈祷を致すべくの事
一 寺役ならびに坊役等往古の如く勤めらるべき事
一 寺領の内百姓等先規の如く寺家の成敗すべく子細によって分別あるべき事
一 当時郡司不入云々。上保においては御料所となし、郡司不入の段、勿論先規を守るべき事
一 他所にしたがって謂れなき子細申すやからあれば、注進いたすべき事
永正四年十一月三日 利綱 」
これは妙心寺から離れて御料所にもどったということを示している。
ただし長滝文書には妙心寺関係の文書はない。
利綱は寺社奉行のような立場だったのだろうというのが横山氏の意見。
疲れた。