遮光カーテン・明日のシンポジュウム

いよいよ明日「鷲見氏・鷲見郷一覧」出版記念シンポジュウム。
同窓会が終わるまでとか、シンポジュウムが終わるまでと思ってここまで来たけど、やっぱり次の課題が現われてくる。

今日午後から暑い中で汗をかきながら小野の家の周りに遮光カーテンを取り付けた。
高鷲の方は朝やった。

明日のシンポジュウムに参加するという電話がかかってきてうれしくなった。

「郡上目城」のことが書いてあるという、悲願寺元隆師の日記のことで図書館から電話がかかってきた。やはり翻刻したものはないということ。直接依頼するしかない。

 

シンポジュウムが迫ってきたので、一夜漬けの勉強をしています。
白鳥町史と大和村史を読んでいます。
読んでいたら疑問が出てきました。
長善寺文書の最初に
郡上郡目城居住の仁者 東下総權守
             玉井三郎
             鷲見藤三郎
と書いてあります。
この目城がわからなかったので、同城と訳しました。
今日、佐藤光一先生に聞いたところやはり目城だと言われたので
それは阿千葉城のことですかと聞いたら、
そんな名前は聞いたことがないと言われました。
白鳥町史には、『千葉城(郡上目城ともいう。「悲願寺元隆日記」』
と書いてありました。
大和村史には、森弘美文書の美濃国郡上郡鷲見郷御領地嗣家譜に
郡上郡目城阿千葉城・または千葉目城・剣目城ともいう』
と書いてあります。
この文書はまだ見ていませんが、どなたかご存じですか?
なお、鷲見度保家文書には、
左の城は向鷲見の城にて御座候。又、一名は霞カ城と申候。云心は敵向へば霞掛かりて城内見え申さず候。郡上郡目城居住人々・・・」
と書いてありました。
鷲見城か阿千葉城かで大きく違ってきます。
どちらでしょうか?

なお、大和村史に玉井三郎のことが書いてある。
文明18年(1486)に内大臣中院通秀のところへ玉井氏が訪れ「美濃上保の証文等一覧す、比類なき事共なり」と記されているという。

大島利堅の後任ということか。