白鳥図書館へ行って岐阜県史資料編を調べた。
汾陽寺文書の中に面白い文書を見つけてコピーをしてきた。
これを読み下している。
岩村郷と河西郷が出てくるのだ。
今まで鷲見郷の河西・河東だと思っていたけど、河西郷というのがあったのではという仮説。検証は古文書で。
①本多氏古文書(金沢市立図書館蔵 松雲公採集遺編類纂 本多氏古文書)
『鷲見四郎左衛門申、美濃國鷲見郷河西郷事、有違乱之由嘆申候、無相違之様、可被沙汰候也、
三月丗日 (足利尊氏) (花押影) (年号なし)
土岐右馬權頭殿(土岐頼康)
足利尊氏御教書写』
②汾陽寺文書 長禄五年(1461)の汾陽寺條書案
「斎藤右衛門尉殿(利賢) 汾陽寺」
河西郷之内岩村若宮八幡修理田之事
一岩村之中西八郎と申者より、修理田六段令買得候、
一修理田壱段、梅所軒御引得候、是者以書付被仰候、
一合七段之修理田より米貮石五斗二升、此俵數七俵七升、但三斗五升俵也、
是も為修理禰宜方へ相渡候、加地子分壹石七斗三升、此俵數四・・・
一岩村之山田孫六前より茶畠壹所買得候、公方年貢貮百文、河西へ納所候て、請取在之、但此下地ハ、従御屋形様、為鷲見地類(頭)御闕所候、
一・・・是も従御屋形様、為鷲見家来に御闕所候、
正月廿一日
利賢は斎藤利三の父?という。
若宮八幡神社は蘇原宮代にある。
この太字の所をどう読んだらいいのだろうか?
御屋形様は守護土岐氏。
また、享禄三年(1530)の河西若宮修理之事に次のように書いてある。
明応四年(1495)に当寺と河西代官鷲見殿立合、本社上葺修理候、・・・
③汾陽寺文書 鷲見直重書状
鷲見氏と岩村郷との関連も文書に残されていて、修理田のことも書かれている。
御書委細拝見仕(つかまつり)候、仍私歓楽事、御懇蒙仰候、忝畏入存候、法眼御参、色々申請たへ候て、養生仕候間、得咸候、乍恐(おそれながら)御心安可被思召候、就中、汾陽寺御引得岩村郷内若宮修理田事に付而、従汾陽寺之御状、並売券之案文弐通、被下候、心得申候、禰宜を召寄、相尋可申上候、聊以不可有如在儀候、以此旨可得御意候、恐惶謹言、
明応八年(一四九九)七月十日
鷲見美作守直重 書判(花押)
弾正殿参 人々御中貴報
この後の書状に「此子細代官鷲見美作守殿へ令申候へば、・・・」と書いてある。鷲見直重は岩村郷の代官で河西の代官。河西は岩村を含むと思われる。
どうやら河西郷というのがあったと言えそうだ。
とすると、河東郷もあったと予想される。
鷲見郷河西河東ではなく、鷲見郷と河西郷と河東郷と考えるのが自然。
写す人も鷲見郷・河西・河東を、つい鷲見郷の河西河東と勘違いしてしまったのだと思う。
そもそも鷲見大鑑には次のように書かれている。
五月一二日、美濃国あ(く)た田み庄内川西川東永代知行千六百二拾三石下され、鷹見の御役料に向鷲見村お城御普請なされ、・・・
素直に読めば「芥見庄内河西郷河東郷」だ。