「反知性主義」と「信仰復興運動」

反知性主義」という言葉をよく見るようになった。
「半知性主義」という言葉もあるらしい。
とすると、「汎知性主義」という言葉も作ることもできる。
 
最近はやりの「反知性主義」は、「バカ」ということらしい。
とすると、凡夫ということかと思い、それなら良いことかと思ったら、
この列島では、バカなのにバカであることを自覚していないという意味に使われているらしい。
 
わからなくなったので、ネットで調べてみると、「反知性主義」は米国で生まれたという。
 
これを読むと、
反知性主義」というのは、知性ではなく、「既存の知性」に対する反逆なんですよ。つまり、知性そのものじゃなくて、「今、主流になっている知性や理論をぶっ壊して次に進みたい」という、別の知性なんです。』
 
つまり、権威や上からの「既存の秩序、教義みたいなものに目を曇らされていてはダメよ」という反骨心でもあり、
特に、リバイバリズム(信仰復興運動)の中から生まれてきたものだという。
 
「神は福音の真理を『知恵のある者や賢い者』ではなく『幼な子』にあらわされる、と聖書に書いてある(「マタイによる福音書」11章25節)。あなたがたには学問はあるかもしれないが、信仰は教育のあるなしに左右されない。まさにあなたがたのような人こそ、イエスが批判した『学者パリサイ人のたぐい』ではないか。」
――これが、反知性主義の決めぜりふである。
 
これは、法然上人が言われたことと同じだ。
そして、私たちもよく使う。
学者が言うような理屈ではないと。
確かに「常没流転の凡愚」「凡夫」ということは、学問や知識の多少が問題ではないということを示している。
つまり、念仏は、当時の仏教界の権威に対する、大いなる信仰復興運動であったととらえることもできる。
 
でも、それは権威や上からの一方的な説明を批判したのであって、考えることを批判したのではないと思う。
見ざる聞かざる言わざるに、思わざるを加えて四猿というらしい。
私は、それは人間ではないといつも思う。
悩み苦しむという煩悩こそ、人間の尊厳なのだと思うから。
でも、それは知性とは違う。
 
凡夫であることが自覚することは、凡夫であることを誇ることではない。
ただ仏の願いを聞くことだけである。