「サムシンググレイト」と仏のはたらき

「サムシング・グレイト」とか「大いなる意識」が存在するという仮説がある。
「創造説」や「インテリジェントデザイン」と同じ種類のものだ。
極めて宗教的な仮説なので、どのように対応したら良いのか考えてみた。
 
というのは、私も阿弥陀仏の本願を考えていて、それは宇宙のことだなと感じることがある。
つまり、「神」「仏」なるものを想定しているという点では、同じところがあるのだ。
つまり、神秘主義
 
でも、こういった「自然への畏敬」を教えるために教科書にとんでもない説を載せることには反対している。
逆に、科学だって仮説の積み重ねだと思っているから、科学を無条件に正しいとする考え方にも反対している。
 
これを二項対立ととらえてしまうとつまらない。
どちらにも、人間が陥りやすい間違いがある。
仮説はあくまで仮説だが、その仮説を適用するうえで、人は良く間違いをおかすということだ。
 
例えば、「死んだらどうなるのか」と考えることは、すべての人が行っていると思う。
その考えは、たぶんみんな異なっていると思う。
この違いは尊重されなければなならない。
押し付けることや教えることではなく、一人一人が体験すること、考えることに意味があるのだ。
 
今日は連研がある。
連研で話をするときに、いつも注意していることがある。
仮説を設定し、こうならなければならないということはしてはいけない。
だから、世間話を譬えとして仏の話に転化してはならない。
私の体験を語るしかない。
仏のことを伝えることが大事だという。(約仏と約生)
しかし、その仏は私にはたらいている(方便論的な私)ので、「私にはたらく仏の話」ということになってしまう。
したがって極めて個人的な話なのだ。
その個人的な話は、また方便となって一人一人の体験となるのではないかと願っている。