アドラーと村田静照

一昨日の夜、TVで「嫌われる勇気」という刑事ドラマをやっていた。

ツレが見ていたので、一緒に見たら、「目的論」という言葉が出てきた。
アレなんだったっけと気になって、「人生の意味の心理学」を読み直してみた。
再読したら、新たに見えてきたことがあった。

それは、アドラーの心理学と村田静照師の処世との一致である。
対応する点を上げてみる。
 
   【アドラー】                【村田静照】
(1) 個人心理学             親鸞一人がため(方便論的個人主義
(2) 共同体感覚             浄土は究極の共同体
(3) 意味づけ(目的論)         縁起としての私だから全責任を負う
                     ・人生は如来からの方便である
(4) 人は客観的世界ではなく       唯心論・仏国土
  主観的な世界に生きている
(5) 自分を変える勇気          凡夫であることを認める勇気
 (嫌われる勇気)劣等感と優越感     罪悪深重の悪人の自覚
(6) 自己受容(ありのままの自分の)  仏による自己受容
                  (こんな私だから救われる)・そのまんま
(7) 他者の認識             究極の他者=如来
                  (仏の目、仏の耳、仏の心)・おまかせ
(8) 目的は未来にある           究極の目的は往生(究極の未来)
(9) 怒りを抑えるのではなく       欲や怒りを抑えるのではなく、
                    そういう自分であると自覚する
  怒りの目的を知ることで        他力のお育て
  怒りに代わる方法がわかる
 
まだあるが、きりがないので。
これは、アドラー心理学が極めて仏教的だという事を示しているのだろうか。
それとも、単なる理解の方便なのだろうか。