虐待・いじめ(迫害)・差別・パワハラ

アドラーと村田がまったく同じわけではない。

その違いは何かと調べてみると、やはり時代と地域の違いである。
ただ、アドラーの方は、テキストを書いた岸見一郎さんの受け止め方が入っているから少し現代的かもしれない。

アドラーは、「虐待・いじめ(迫害)・差別・パワハラ」等の原因をきちんと探っている。
そして、それを克服する道として、「他者の認識」や「共同体感覚」を導入した。

では、「虐待・いじめ(迫害)・差別・パワハラ」はなぜ起こるのか。
いや、そうする人はなぜするのか?

虐待・いじめ(迫害)・差別・パワハラ」をする人は、そうしているという自覚はなく、しつけや教育であり、相手に原因がある(相手のため)と思っている(見かけの原因)。
しかし、原因論(~だから)でなく目的論(~のため)で見ると、する人の心の問題であり、特にその人の「自己中心性」によっていると分析している。

自己中心性は「自分が世界の中心にいる」と考えていることから来ている。
岸見さんは、それは「賞罰教育」によってさらに強化されていると考える。

その筋道だけ書くと、
(愛情飢餓の人・自己中心的な人)→注目されたいという強い「承認欲求」がある
→その欲求が満たされない→この時、価値低減傾向を示す
    (他者の価値を落として自分が自分が優位に立とうする)
→虐め・差別(自分を高めないで相手を落とすことで欲求を満足する)
パワハラ(感情や力で他者を支配しようとする事で欲求を満たす)

「賞罰教育」とは、ほめる・しかる教育のことで、ほめられた人はもっと褒められたい(承認欲求の強化)と思い、叱られた人は自己肯定感を失う。
競争の社会の中で「他者よりも優れていようとすること、他者を蹴落としてまで上に上ろうとすること」と思ってしまう。そうでなかったら生きる価値がないと思う。

「「虐待・いじめ(迫害)・差別・パワハラ」をする側の人は、強い劣等感を持っていて、だからこそ自分よりも弱い人を虐めたり差別をすることで、相対的に自分を上に位置づけようとするのです。だとすると、そうする人の側に、自分に価値があると思えるような援助が必要になってくるのです。」

仏法と心理学のつながりを考える上で、とても大事なことを指し示していると感じる。

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別山と白山と大日岳(大和から)