近代化という問題

私にとって、「近代化という問題」は避けては通れない問題である。

 
微力ながら自分なりにこの問題を考えてきた。
今、この問題に取り組んできたことが、大きな流れの一部であったと感じる。
でも、それは社会の流れではない。
 
昨夜の100分de名著は悪人正機説を取り上げていた。
「何をしても救われる」や「すでに救われている」という安心に容易には座らせてくれない思想。
そして、むしろこの逆説こそ宗教の役割であると。
社会とは逆の価値を提示するのが宗教のねうちであると。
 
この観点は面白い。
社会とは何か、私と社会との関係を示している。
 
一人の存在として、常に社会の影響を受けている。
が、その社会を真理とは決してとらえない。
真理は社会とは別の所にある。
 
社会と真理とを合致させようとすると「国体論的なユートピア主義」に陥る。
そういう間違いを近代化の中でおかしてきた。
また、社会を真理に従属させようとすると科学主義に陥る。
これが近代化の象徴的な問題だろう。
 
社会と真理とを考える場合に重要なのが「大衆」のとらえ方。
中島さんは「大衆という問題」を、ポピュリズム権威主義が重なり合っている現在の状況と重ね合せる。
 
「トランプ現象」を見ると、「大衆の反逆」はこの列島だけではないと感じる。
大衆が正しいわけではない、が預言者は大衆から迫害されてきたという歴史もある。
そして、それはかって明治維新75年の最後の25年間で起きたことなのだ。
 
中島さんは、そういった問題を回避していく道をいくつか示している。
①設計主義的生命観に対して「縁の思想
②国体論的なユートピア主義に対して「民衆の中の知恵を大事にする保守主義
ナショナリズムに対して「死者のデモクラシー・未来の他者とのデモクラシー
グローバリズムに対して「一如から顕れる多様性(多一論)
 
まだあると思うけど、取りえずまとめてみた。