約仏と約生

約仏、約生という言葉がある。
約仏とは主語が仏、約生とは主語が私
 
主語が仏のことばを述べるということは、私が仏の立場に立って考えるということ。
もちろん、そのようなことはできうるはずがない。
唯一、仏からの言葉やはたらきを感知したときに可能となる。
 
教行信証で、親鸞さんは主語を仏にしている。
これは、仏のことを語っているのではない。
私を主語として生きてきた私のあり方を、逆転させると見えてくるはたらき。
そのはたらきを述べられたのだ。
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この図は、私の勝手な理解であって、
仏のことばではない。
しかし、私にはとてもよくわかる。
どちらの矢も真如のはたらき
他力であり、本願力回向であり
往相であり還相である
 
ここにおいて、私は「方便論的な私」となる。
「汝-私」の私である。
私を無くすことではなく、
私を破る、私を抜ける私である。
 
「方便論的な私」という言葉が生まれてきたのは、仏の方便の私へのはたらきと感じる。
 
 
八六。仰せを持ちかえるな   
 江州醒ヶ井みそすり屋にて。
 師曰く。婆々、そのままの御助けじゃぞや。 
 婆々曰く。難有う御ざります。いよいよ是のままの御助けで御座りますか。
 師曰く。いやそうではない。そのままの御助けじゃ。仰せを持ちかえるなよ。