嘘も方便

近所の87歳の方が朴葉飯を持って母を訪ねてきた。
一緒に朝飯を食べながらいろいろなことを話した。

その中で、
子どもの頃に母に言われたことが今の自分の血肉になっていると語られた。
幾つかの印象的な言葉が出たが、一つだけ。

どこでも使っているような嘘はつくな。嘘も方便やぞ
いつもこう母からいわれた。
あれ?と感じた。
というのは、「方便のためには時として嘘をつかなければならないこともある」
という解釈が一般的であるが、
問題は「方便」。
「方便」の原語は近づく・到達するという意味で、
お釈迦様が巧みな方法を用いて衆生を導くことをいう。
だから方便と言いうのは「真実の法に導くための仮の手だて」であって
これが転じて、目的の為にも利用する便宜の手段となる。

そして、目的のためには嘘をついても良いという様に解釈されてしまう。
だから「方便」はあまりいい意味ではなくなる。
でも、このお母さんは方便を良い(本来の)意味で使っている。
ちゃんと方便が生きていた時代があったんだと。

やむをえず嘘をつかなくてはいけない時がある。
でも、「嘘も方便」ということを忘れるなと言われたのだ。
この場合の方便は仏のはたらきを言っている。
まさに真実の世界からのはたらきを示しているのだ。

この五濁の世は方便を自分中心に考えて「目的のために利用する手段」
という解釈を生み出してしまった。
方便が真理へ導くための手だてとは、思えなくなっている。