さっき、お夕事で教行信証を読んでいたら、次のお言葉が目に留まった。
しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。
(このようなわけで、 浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、 愚かなものにも往きやすい近道なのである。)
浄土の教え→近道 (これは譬え)
教えと近道は全く別のものなのにこうやって譬えられるととてもよくわかる。
そもそも表現とはどのような譬えを用いるのかということなのだと思う。
ここで矢印を用いたのは、譬えも矢印であらわされることを強調したいから。
矢印にはかくも表現力があるということを。
次に矢印の表現の例をいくつか挙げてみる。
変化、関数、対応、順番、指し示す、・・・
さて、このように矢印を使ってきたけど、その極まりが圏論。
ではそもそもなぜ圏論なのか。
これは私の経験によるし、その経験が指し示している。
今では、矢印は思考の道具となっている。