投射された表象はどうやって世界に位置づくのか

頭の中がプロジェクションについて一杯になっている。
既に出会っていたような気もする。
忘れているだけなのかもしれない。
ふと思い出したのが古今集仮名序。
         古今伝授と国ゆずり古今集仮名序にみることばのちから)
モノが語るというのはプロジェクションのアナロジー

古今集仮名序

やまと歌は
人の心を種として
よろづの言の葉とぞなれりける

世の中にある人
事業(ことわざ)しげきものなれば
心に思ふことを見るもの聞くものにつけて
言ひいだせるなり

花に鳴くうぐひす
水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるもの
いづれか歌をよまざりける

力をも入れずして天地(あめつち)を動かし
目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ
男女(をとこをむな)のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり

「光る君へ」でこういう解釈をしていた。
「そもそも和歌は人の心を、見るもの聞くものに託して言葉に表しているもの。
ひるがえって漢詩は志を言葉に表すもの。」
これはこの序と帰去来辞をドラマに投射(プロジェクション)したもの。

もう一つ、全ての関係としてとらえるとプロジェクションは始まりである。
心の中で構成された表象を投射する。
その表象はどうやって世界に位置づくのか。
しかも一人一人がお互いに表象を投射していて、投射された表象が混ざり合っている。

これをどう考えたら良いのだろうか。

通院と孫と内言

プロジェクション・サイエンス

孫が「おじいちゃんもっと遊ぼう」と言う。二日間遊んで遊びまくった。

前に書いた「金属は冷たいと感じるのはなぜか」の脳科学的な説明と出会った。
ユーチューブの紹介に投影されたビデオを見ていたら面白いと感じた。

例えば、目の前のリンゴは単なる物体ではない。
このリンゴを見た時、自分自身の経験がそのリンゴに投射されている。
図で示すと

情報処理システム(五感)
 主観的経験を構成=表象
      ↖    刺激・情報 
         ⇆⇆⇆⇆⇆⇆⇆  モノ
        ↘  外界への参照
        投射=世界の中に対象を見る
         表象のプロジェクション 

ヨガをやっていると、身体を感じる。
自己受容感覚と自分の身体との投射が存在」することが実感できる。
さらにこんな「フルボディ錯覚」というのもあるらしい。

自己帰属感(身体所有感) 研究まとめ(ラバーハンドイリュージョン応用編)

入力と出力を同時にしているという点ではオートポイエーシスと似ている。
この体験を解明するために認知心理学脳科学やVRと結びつけたのだろう。
こういうことを研究するプロジェクション・サイエンスというのがあるという。

誰かの顔を認識するとは,脳内の出来事であると同時に外界への参照でもあるのです. この投射を「表象」について探求するのがプロジェクション・サイエンスです.

・幻視・ラバーハンド錯覚・腹話術効果・幽体離脱・幻覚などを起こすことができる。
 プロジェクションはこれらの現象を説明できる点がすごい。
・身体の拡張=車の運転・CG+HMDなどは既に体験している。
・「GeoGebraで数学を体験できる」という効果はこれだと納得した。
 表象されたものを対象としてさらに表象する。
 それによって認識が深まっていく。
 そういう経験を外界に投射しているのがGeoGebraなのだ。
 図を動かしていると、「証明とは何だろう」と自然に感じてしまうのだ。
・言葉を用いて話したり、こうやって概念を用いてコトを書いたりすることは、
 プロジェクションなのだ。そのプロジェクションされたものをまた受け取る。
 そうすることによって、だんだん表象が鮮明になってくる。

ポランニーから見るプロジェクション:近位項と遠位項 | 鈴木 宏昭

ポランニーから見るプロジェクション:棲み込み | 鈴木 宏昭

プロジェクションを考えるといいことは何か? | 鈴木 宏昭

naming insightとプロジェクション | 鈴木 宏昭

孫が私のやっていることを見て自分の動きにプロジェクションをしている。

宇宙の人間原理の理由

この宇宙は自分自身を究明するために生命体を創り出したとしか思えない。

このことがずっと疑問だった。
昔「人間原理」というものがあることを知った。
これを突き詰めると、「インテリジェント・デザイン」の考え方に行きつく。
でも、「じゃあそれ(神・創造主)はどこから出てきたんだ」という循環論になって、はるか昔に兼好法師も疑問をいだいている。
このことがずっと引っかかっていた。
それを見事に説明してくれたのが次のビデオ。

前半のワインバーグの思考の跡をたどることで、不思議に腹に落ちた。
なぜ人間原理になるのかを確率を用いて説明がしてある。
そして宇宙の偶然性を突き詰めるとマルチバースに行きつくのだ。
こうなるとインテリジェント・デザインは見事に必要なくなる。

そもそも仏教の宇宙観はマルチバースだ。

野村さんの本を買って読まなくては。

ここで不思議に感じるのは数学の位置だ。
この宇宙の存在以前に数学が存在しているかのように感じる。

鷲見氏への天文年間の手紙

前に出した「鷲見氏・鷲見郷一覧」は常に編集し直している。
間違いだけでなく新しくわかったことも書き込んでいる。
原文の文字よりも書き込んだ文字の方が多いページもあるくらい。

そして、訂正版はサイトの方に新しくアップして常に更新している。
これがサイトの良い所。
できるだけ完全なものを本にすると願っているけど、
そもそも本にしたものは常に更新されるものだ。
だから、同時にサイトに掲載して訂正版を載せている。
 ⇨ 【高鷲古文書を読ままい会 (hamaguri.sakura.ne.jp)

さて、今回は十日前に紹介した「斎藤道三からの手紙」の修正版を編集した。

(十一)「天文年間の手紙」(鷲見尚武氏所蔵)

これを編集していると美濃の土岐家の動向がわかってくる。
それにしても彼らのネットワークやそれをつなぐ人たちの往来と手紙がかなり多かったことに驚いている。
「小野吉田」については以前どこかの本で読んだ覚えがあるのだけど、
その本を探していても見つからない。
そのうちどこからか出てくるだろうと思っている。

江戸時代の人々のくらしも、私たちが想像をするよりもレベルが高い。
裁判記録を読み解いているけど、現代の私達よりも進んでいる所がある。
何年もかけて示談をしてそれを書類にして後の子孫にまで伝えようとしている。
これについてはまた書こうと思っている。

 

切立白山神社の能面

これは切立の白山神社に伝わる能面。ババ面ともいう。
本来は能の「橋姫」の面であると、
郡上市文化財審議委員の曽我孝司氏から教えていただいた。

ところでなぜ神社に能面があるのだろうか

最初に、面の持ち方は、まず紐の所を持ち表面には顔を近づけないことと教わった。
当地では現在神楽の「かねすり坊主」で面だけ使用されているが、本来能の奉納が行われたときに使われたのだろう。

実際に長滝神社では、永禄11年(1568)に「延年」の能を越前の大和五郎太夫が来て、法楽をしたという記録がある。『荘厳経執事帳』
「初日と次日に能をそれぞれ七番演じて、郡内から多数の人が見物に来た。郡内でも何事も無く(平和で)皆くつろいで、とても珍しく大事にした。その時は長龍寺の僧侶も楽器などを演じた。」
そして、「六日祭りにも皆で稽古をして7番の能を演じた。ただし、天文年間より能はやらなくなった。」と『修正延年並祭礼之次第』の記録にある。

この記録にはいくつか矛盾がある。
後半の記録(「そして」以下)の原文を調べてみる。(白鳥町史資料編)
慶安元年(1648)の記録
「六日、祭の作方先越前の大和五郎太夫当地に来り、極月二十五日、寺家衆も稽古して七番の能あり、則ち祭礼は六日の夜也。これも天文(1532~1550)のころより能は懈怠なり。」と書いてある。
100年の隔たりで同一人物が出てくるのはおかしいので、この「先」をずっと以前にと読むしかない。
もう一つは、永禄11年に大和五郎太夫が来て教えたのに、それ以前の天文の頃より怠っていた(やらなくなっていた)というのはおかしい。(天文の頃からやらなくなっていたけど、永禄11年に大和五郎太夫が来てくれて再演したとも考えられるが…)
何れにしても慶安の頃には能が行われなくなっていたことは確かだろう。

さて、この面の特徴は、
①能面の様式を踏まえた精巧な作りの秀作である。
②頭には毛描き、額は長い、眉間にしわ、目に金輪、歯は墨、鼻は開く
③裏面は黒漆塗り、朱書きで「✖橋姫」と記されている。
④戦国時代に越前大野で製作された面と思われる。
⑤長滝白山神社より入ったと思われる。

切立白山神社の神楽は、
3年毎に奉納され、60名あまりの方たちが役者として参加されている。
安政6年(1839)中西村の三輪神社より習得。
幟には「文久元酉(1861)八月吉日 白山権現 中西村寄進」と記載されている。
中西の三輪神社の神楽は安永2年(1772)以前に中津屋村から習得。
白衣の上に黒のけさ衣の様なものを纏ったババ面が独特な道化をしながら付いていく。

裏は黒漆で塗られており、✖ 橋姫と朱で書かれている。

目の穴の縁が金色に塗られているのは、怨霊を表していると言われた。
ちなみに能の「橋姫」については次のサイトに詳しい。
橋姫 - Wikipedia

丑の刻参りの鉄の輪をかぶった女性の原型と思われる。

曽我先生が講演の途中でぐあいが悪くなり、講演会が延期になったことは残念。
再度の講演を祈念する。

図書館の喩え…認識と生成のモデル

 様々なデータを入力してそれを編集して出力するというBBよりももっと良いモデルはないのか考えてみた。昔から使われている「図書館モデル」が一番合っていると思って図にしてみた。
 描いていてどんどん付け足されていくので、これは豊かなモデルだと感じたしだい。「BBモデル」(ブラックボックス)だと出力されたものも同時に入力されているということがうまく表現できないけど、「図書館モデル」だとそれが可能。
私たちは大きな図書館の中で生きている。

 

東北大震災13年目

TVで13年経った避難所アパートの現状をやっていた。
はじめの頃はいろいろなイベントがあったり、様々な取り組みをして活気があったけど、歳月とともに歳をとって活動ができなくなった。
そして、孤独死をする人たちが数百人もいるという。
これをどう考えたらいいのだろうか。

そこには様々な問題があり、それは現在の私たちの状況をそのまま示している。
震災が起きたからそうなったよりも、元々持っていた問題がより鋭い形で、しかも加速して現れたのだと感じる。
だから、私たちの問題なのだ。

起きたことも老化する。私たちも老化する。
でも、それは当たり前のことで、それを考慮に入れない政策は現実を見つめないで、そっぽを向ている。
祭りは大事、地域の伝統的な行事も、子どもたちも、大事だ。
大地に足をつけた生活こそ。