投射された表象はどうやって世界に位置づくのか

頭の中がプロジェクションについて一杯になっている。
既に出会っていたような気もする。
忘れているだけなのかもしれない。
ふと思い出したのが古今集仮名序。
         古今伝授と国ゆずり古今集仮名序にみることばのちから)
モノが語るというのはプロジェクションのアナロジー

古今集仮名序

やまと歌は
人の心を種として
よろづの言の葉とぞなれりける

世の中にある人
事業(ことわざ)しげきものなれば
心に思ふことを見るもの聞くものにつけて
言ひいだせるなり

花に鳴くうぐひす
水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるもの
いづれか歌をよまざりける

力をも入れずして天地(あめつち)を動かし
目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ
男女(をとこをむな)のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり

「光る君へ」でこういう解釈をしていた。
「そもそも和歌は人の心を、見るもの聞くものに託して言葉に表しているもの。
ひるがえって漢詩は志を言葉に表すもの。」
これはこの序と帰去来辞をドラマに投射(プロジェクション)したもの。

もう一つ、全ての関係としてとらえるとプロジェクションは始まりである。
心の中で構成された表象を投射する。
その表象はどうやって世界に位置づくのか。
しかも一人一人がお互いに表象を投射していて、投射された表象が混ざり合っている。

これをどう考えたら良いのだろうか。

通院と孫と内言