通院と孫と内言

手術後2回目の診察のため病院へ。

PSAの値も下がっていてひとまず安心(あんしん)。
膀胱の運動を抑える薬を飲むことになった。

その後孫に久しぶりに会いに行った。よくしゃべるようになっていた。
何を言っているのか聞き取れないこともあるけど、確かに内言を語っている。

ところで「内言」って何だったけ。

内言語機能音声や文字を伴わない言語活動であり、一般的な言語(外言語)の形を伴わない言語以前の思考や概念、あるいはそれら思考の体系である。
内言語機能は言語発達にも重要な役割を担っており、例えばヴィゴツキーは、子供が自己の欲求などに基づく自己中心語により欲求調整、思考の整理を行う過程を通して、内言語機能が発達し、内言語外言語が分化すると考える。

 「言語以前の思考」って何だろう?

ヴィゴツキーは「思考とことば」を単位としてとらえ、外言は内言を、内言は外言を伴う一体の活動として考察しました。 その際に、この問題を「ことばと思考とに分解してしまう研究者」は、「水を酸素と水素に分解する人々とまったく同じことになる」と指摘しています。その結果、酸素も水素も燃えるものなのに「なぜ、水はを火消すのか、なぜ水にはアルキメデスの法則が当てはまるのか」を説明できない。ヴィゴツキーは「言語的思考を、まさに全体としてのそのものに固有な本質的特性」において解明する科学的研究の道を取りました。「問題は研究の方法にある」と彼が繰り返し強調するのは、対象の認識方法のミステイクによって、まったく違うものを見てしまうからです。(折出先生)

言語を獲得途上の幼児は内言語機能が充分に発達していない。そのため、他者へ伝達することを目的とする言語以外に、単独発話である私的言語が多く観察される。
心理学者ジャン・ピアジェはこの私的言語発話をegocentric speech(自己中心語)として捉え、この自己中心性が減少し社会的相互関係のある発話が充分に増加した時点で、成熟した言語が機能すると考えた。
ピアジェはこのように自己中心語を肯定的な機能としては捉えなかったが、その一方で、心理学者レフ・ヴィゴツキーは、自己中心語自分の考えや行動を判断したり調整したりする場面で使用されており、内言語を発達させる重要な役割を担っていると考えた。
ヴィゴツキーの言語発達段階の第1段階である自分の欲求を示すだけの言語活動(例、ジュースほしい)から、成人と同様な内言語機能を使用する最終段階をつなぐのが、自己中心語であるとした。これらの段階を経て内言語と外言語が分化するとされている。

 「自己中心語」と「内言」とを区別しているんだ。(一緒だと思っていた)
さらに、内言語+外言語 ⇨ 内言語機能という概念を設定している。(分けてはいけない)

内言語機能 - 脳科学辞典

 一月のオンライン地区セミナーでこの内言と外言について議論した。
猫(ちゃん)のパペットを使って友人と語るリョウ君の言葉とは何かについて。

「猫はリョウ君の心の葛藤の表出なのか?」(良い子の兄猫と悪い子の弟猫)
「リョウ君は猫を通じてサントスたちと会話をしているのか?」
「無意識とはいえそんな高度なことをやっているのか?」
ヴィゴツキーの外言から内言という方向とは逆ではないか?」
(彼には猫を通じて他者を自分の内に取り込んで内言として表出しているのか?)
これらの課題についての一応の結論。

リョウ君は幼児から人形と遊んでいた。
その人形には父とか母とか自分という役割がある。
そして、その父などの言動を人形に語らせる。
それはまさに外言であり、その延長として猫たちが出てきているのではないか。そうだとしたら、猫たち(書くことも含めて)は他者の言動をそのままなぞっている遊びではないか。

そう考えると、弟猫は妹たちの投影(言動)かもしれない。
(猫ではしているけど、リョウ君自身はサントスとけんかをしていない)

そして、そうやって表現していた「ごっこ遊び」が学級の子たちとの交流によってだんだんとリョウ君の内言になってきたのではないか。

つまり、弟猫がリョウ君の中に位置づき、自己内対話(内言)ができるようになってきたのではないか。(猫たちが必要なくなってきた)
そして、リョウ君は学級の子たちとようやく喋れるようになってきた(外言になってきた)のではないか。

 
発問とシンキング・スキル
 「内言」から「発問」の意味を問う (2010.12)

これを再度考え直さなくては。