指月の譬 ( 言葉「 指」と真実「 月」)
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「 義に依るとは、義の中は無諍なり、好悪、罪福、虚実の故に、
そして、言葉は意味を指し示しているけれども、意味そのものではない。」ということだ。
言葉・言語を否定しているともとれる。
( これについては、龍樹自身の考えではなく、訳者や読み下しの問題である。
龍樹はむしろ親鸞さんと同じ言葉の捉えだったと後で知った。)
ところが、親鸞さんは
「 ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。」
「 語は義の指とす、語は義にあらざるなり。」と読む。
つまり、「 言葉はすでに意味( 教えの内容)を持っている。
ところが、親鸞さんは
「 ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。」
「 語は義の指とす、語は義にあらざるなり。」と読む。
つまり、「 言葉はすでに意味( 教えの内容)を持っている。
意味は言葉そのものではない( が)。」
「 言葉は意味を指し示している。言葉は意味そのものではない( けれど)。」
「 言葉は意味を指し示している。言葉は意味そのものではない( けれど)。」
真ん中のリンクは山本伸裕氏の論文である。
分かり難いがもう一度読み直してみた。
「現生正定(聚)」=「現生往生」としているところは疑問だが、
他は納得できる。
それは、「智度言」と「戯論」を明確に分けるコト。
言葉は自性の想定を必要としない、まさに縁起するもの。
龍樹は、自性なるものを想定することで、思考はかえって泥沼にはまり、
自由や柔軟性が奪われてゆくと主張した。
「戯論」は自性を想定した言葉の使い方
「智度言」はそうではない縁起と空によった言葉
例えば、0という言葉を実体(=0は自然数であるとか)と考えると、
1÷0は矛盾を持ってしまう。
こんなたとえを考えたけど、これは智度言の例かどうか。
むしろ、政治における戯論の方がよくわかる。