篠脇城の謎に迫る

午前中タイヤ交換。

午後から大和フィールドミュージアムよぶこどりで中井均先生の講演。

「篠脇城の謎に迫る―測量と発掘調査の成果から―」

【謎1】 山城は、麓に生活する館があり、山頂の城は防御空間として使われていたというのが定説。
ところが次の記事でもわかるように、この二つの山城には山上に生活する館があったことが発掘によって分かった。庭園(池)があったこと、食器や碁石青磁が出土したことから年代までわかる。
篠脇城では麓にある東氏館には15c中ごろまでのものが出土しているが、それ以後は全く出土しない。そして今回山上から出土した。ということは下から山の上に生活空間を移したと考えられる。それはちょうど応仁2年の斎藤妙椿による篠脇城が奪われたこと(1468年))と符合する。
古今伝授と国ゆずり  古今集仮名序にみることばのちから)
詰としての防御空間→住む山城→?と変化したということだ。

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【謎2】 同じく文献とは異なる説を語られた。これがショッキングだった。
下図のように篠脇城には畝状竪堀群(臼の目堀)が32本もある。
ではこういう堀が造られた構築年代を調べていくと天文から永禄(1532~1570)と考えられる。しかもそれは越前や越後の城。特に朝倉氏がこれを多く使った。

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篠脇城は天文9年に越前朝倉氏によって攻められ、翌年10年に八幡の赤谷山城に移っており、篠脇城は廃城になっている。赤谷山城には「うすのめ堀」はない。
これをどう考えるか。
中井先生の説は、朝倉の軍勢が城に入って短期間で畝状竪堀群に改修したのではないか。また同様の畝状竪堀群が白鳥の二日町城にも見られる。朝倉の影響はかなり郡上の上之保に及んでいたのではないかと語られる。
地元に残る文献(長龍寺文書)では朝倉軍は負けて撤退したと書いてある。
この矛盾をどう考えるかが面白かった。
実物による綿密な調査を積み重ねられた説は文献よりも説得力があるように思われる。

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この後、阿千葉城にいた鷲見氏が東氏によって滅ぼされる。
それがなぜなのかのヒントがここにあるような気がする。
まさに謎が謎を呼ぶけれど、そこに一筋の光が見えるような気がする。
古文書をやっていると、そこに書かれていることが必ずしも正しいことだとは言えないことが見えてくる。だから測量や発掘が語るものに耳を澄まさなければならない。

また、鷲見氏は土岐氏と共に発展し、土岐氏と共に滅んだといってもいいと思う。