記録と記憶について

記録と記憶について書いておく。

元気アップ教室に行こうと思って車のキーを探したがどうしても見つからない。
時間が迫ってきたので予備キーを探し出して浄光寺へと向かった。
鍵のストラップを数珠と同じものにしているので、それが随分とくたびれてきたから作ろうかと考えたことは覚えている。
ので、どこかに置いたと思うけどその後が思い出せない。

元気アップ教室の最初の話が認知症について。
あてはまるものが5個のうち一個でもあれば認知症の心配があるという。
3個もあてはまってしまった。
ところがみんな2~3個ぐらいあるのだ。
それは認知症ではなく老化だということになった。
私は生まれつきなので、生まれつきボケているということになる。

母が認知症になることを極度に恐れていて、私がボケていると認知症ではないかと心配する。そのたびに生まれつきぼけているし知恵もないと言って返す。
認知症もいろいろなのだけど、その極端な例をああなると思って心配しているのだ。
「よほど今までしっかりしていたんやな」と言うと「そうや。こんなことは無かった」と言うのであきれてしまう。

ところで「自分がボケていて無知で間違いばかりしている」という自覚はどこから出てくるのだろうか。
母に私たちは生まれつきぼけていると言うと、どうも自尊心を攻撃されていると思うらしく、凡夫の自覚にはなかなか至らない。
これは子どもたちも同じだろうと思う。

と記録して、記憶の話だったと思い出した。
帰ってきてまた探していたら連れ合いがタオルの中から見つけ出した。
そんなところに置いた覚えはないのにあったということはそこに置いたのだろう。
自分の行動ですら自覚していない。
記憶にのこらない行動があるけど、鍵の在りかという記録は確かにあるということになる。

記録の方が記憶よりも大きい。
それを自覚することが大事ということか。

元気アップで小森さんと出会った。
彼女がこういう活動をしていることを初めて知った。
記録と記憶が合致した。