龍樹が示したように、それは「~は~ではない」という否定形でしか表現できない。
でも、人はすっきりした「~は~である」という言い方を求める。
これが、いろいろなところで混乱をきたしている。
昔、経典を読んだ時に感じたのだが、延々と続く否定形によって、
わけがわからなくなった覚えがある。
フレイレの本を読んでいても同じことを感じる。
(本当の)教育は、「銀行型教育」ではない。
知識は空っぽの脳に詰め込むことではない。
「セクト主義」は神話を生み、それによって人を阻害する。
しかし、体験するとこういう表現しかないことに気がつく。
問題は、これがとても回りくどく、わかりにくいことだ。
でも、心配ない。
フレイレが紹介しているある非識字者のことばがある。
「おれの学校は世界さ」
ある非識字者が言った。
この人に人はあえて何を教えることができるのか。
と。
昨日、認知症の方と介護の方の素晴らしい会話に出会った。
認知症の方は、麻雀を譬えに自分自身の不安を語られる。
それを麻雀で応える素晴らしさと同時に、
このおばあさんの智慧に感動してしまった。
パジャマ 衣類などを手に
『例えばね、これと、これがちゃんとアンコになってるかしら?
これと、これがトイトイになってるかしら…?ってとても不安なのよ(涙)』
『それでね なんて言えばいいのかしら…
私のお部屋はちゃんとテンパってるのかしら?
何か足りないんじゃないのか不安なのよ(涙)』
こういう智慧をなんというのだろうか。