書くことは儀式だ

対話が大事だと言いながら、こうやって「書いて」いる。

ソクラテス釈尊、キリストは一切書かなかった。
彼らがやったことは、オーラルな暗記と対話であった。

私にとって、「書く」ことは考えをまとめるためなのだが、次のような文章に出会った。

 「書く」という行為は、本来ひとつの儀式であり、
  日常的な時間をせき止めて、世界と自覚的に対峙するという意味で、
  書くことと儀式とは、もともと同質ないとなみである。

つまり、書くということは文化であり、問題提起であり、意識することだ。
書くことは、文字にするだけでなく、演劇や絵で描くことも含まれる。
これは、パウロフレイレの「伝達か対話か」の中の、里見実さんの書いた序の中にある言葉。

この本には、被抑圧者への「援助」や「普及」が犯す間違いが書かれている。
そして、「一方的に支配的に語られる言葉」に対して、
私たちができること、それは対話であり、対話は最も強力な方法であると
述べられている。

フレイレは、ブラジルの選挙ポスターに書かれていたことを嘆いている。

「あなたは考えなくともよいのです、彼があなたのために考えてあげますから!
あなたは見なくともよいのです、彼があなたのために見てあげますから!
あなたは話さなくともよいのです、彼があなたのために話してあげますから!
あなたは行動しなくともよいのです、彼があなたのために行動してあげますから!」