次の対比は面白いと思う。レンマの論理と起承転結の対比。
(1) A (肯定) ⇔ 起
(2) ¬A(否定) ⇔ 承
(3) Aでもなく¬Aでもない (肯定でもなく否定でもない)⇔ 転
(4) Aでもあり¬Aでもある (肯定でもあり否定でもある)⇔ 結
元々、テトラレンマ(龍樹の中論を定式化したもので4句形式)なのだから、起承転結と言っても良い。和讃もこれに入る。論証法(ギリシャ)は修辞法(中国)であるし、その間がレンマ(インド)なのだ。そして修辞法をさらに追求したのがメタファーなのだろう。
ここで(3)「両否定」が「転」になっているところが特に面白いと思う。
さて、例によってレンマとこの対比を使って「善悪」を考えてみよう。
(1) 私は善人である。 起
(2) 私は善人ではない。 承 (これは転ではない)
(善悪は私にとって相対的なもの、私たちにはわからない。)
(3) 善人ではなく、善人でないわけでもない。 転 (本当の転入)
(仏から見たら、善を成すものが必ずしも善人ではなく、
悪を成すものが必ずしも悪人ではない。)
(4) (私は仏から見たら)善人であり悪人である。 結
(仏は善人もあわれまれ、悪人にも涙をそそがれている。)
[金子大栄師の「意訳歎異抄」より]
ここで歎異抄三章
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」
A 善人(でさえ)往生ができる(のだから)悪人は(必ず)往生できる
B 悪人(でさえ)往生ができる(のだから)善人は(必ず)往生できる
世の人はBだと思っているけど、本当は逆である。
善人は往々にして自力作善の人だから、仏を憑む心が欠けている(自分のしていることを誇ってしまう)。でもその自力の心をひるがえして、他力を憑めば真実報土に往生できる(そのままだと仮土に往生だよ)。
仏は、煩悩具足の(悪人たる)私たちがどんな行をしても迷いから決して離れることができないことをあわれんで願をたてられた。お前を何とか成仏させたいと。だから他力を憑む悪人こそ救いの道を開くもので、BではなくAなのだよ。
これを書く時まで、自力作善の善人は報土に往生できないものと思っていた。善人でも他力を憑めば往生できるからこの論理が成立していることにやっと気がついた。
19願から18願は遠いのだ。
11月の坪庭。「井戸の中」
ふと逆の方が井戸らしいと思い直して作り直し。