切立白山神社の能面

これは切立の白山神社に伝わる能面。ババ面ともいう。
本来は能の「橋姫」の面であると、
郡上市文化財審議委員の曽我孝司氏から教えていただいた。

ところでなぜ神社に能面があるのだろうか

最初に、面の持ち方は、まず紐の所を持ち表面には顔を近づけないことと教わった。
当地では現在神楽の「かねすり坊主」で面だけ使用されているが、本来能の奉納が行われたときに使われたのだろう。

実際に長滝神社では、永禄11年(1568)に「延年」の能を越前の大和五郎太夫が来て、法楽をしたという記録がある。『荘厳経執事帳』
「初日と次日に能をそれぞれ七番演じて、郡内から多数の人が見物に来た。郡内でも何事も無く(平和で)皆くつろいで、とても珍しく大事にした。その時は長龍寺の僧侶も楽器などを演じた。」
そして、「六日祭りにも皆で稽古をして7番の能を演じた。ただし、天文年間より能はやらなくなった。」と『修正延年並祭礼之次第』の記録にある。

この記録にはいくつか矛盾がある。
後半の記録(「そして」以下)の原文を調べてみる。(白鳥町史資料編)
慶安元年(1648)の記録
「六日、祭の作方先越前の大和五郎太夫当地に来り、極月二十五日、寺家衆も稽古して七番の能あり、則ち祭礼は六日の夜也。これも天文(1532~1550)のころより能は懈怠なり。」と書いてある。
100年の隔たりで同一人物が出てくるのはおかしいので、この「先」をずっと以前にと読むしかない。
もう一つは、永禄11年に大和五郎太夫が来て教えたのに、それ以前の天文の頃より怠っていた(やらなくなっていた)というのはおかしい。(天文の頃からやらなくなっていたけど、永禄11年に大和五郎太夫が来てくれて再演したとも考えられるが…)
何れにしても慶安の頃には能が行われなくなっていたことは確かだろう。

さて、この面の特徴は、
①能面の様式を踏まえた精巧な作りの秀作である。
②頭には毛描き、額は長い、眉間にしわ、目に金輪、歯は墨、鼻は開く
③裏面は黒漆塗り、朱書きで「✖橋姫」と記されている。
④戦国時代に越前大野で製作された面と思われる。
⑤長滝白山神社より入ったと思われる。

切立白山神社の神楽は、
3年毎に奉納され、60名あまりの方たちが役者として参加されている。
安政6年(1839)中西村の三輪神社より習得。
幟には「文久元酉(1861)八月吉日 白山権現 中西村寄進」と記載されている。
中西の三輪神社の神楽は安永2年(1772)以前に中津屋村から習得。
白衣の上に黒のけさ衣の様なものを纏ったババ面が独特な道化をしながら付いていく。

裏は黒漆で塗られており、✖ 橋姫と朱で書かれている。

目の穴の縁が金色に塗られているのは、怨霊を表していると言われた。
ちなみに能の「橋姫」については次のサイトに詳しい。
橋姫 - Wikipedia

丑の刻参りの鉄の輪をかぶった女性の原型と思われる。

曽我先生が講演の途中でぐあいが悪くなり、講演会が延期になったことは残念。
再度の講演を祈念する。