ケアとは非暴力を学ぶ実践

母の世話をしていて感じていることを見事に表現した言葉に出会った。

人は弱者として生まれ、弱者として死んでいきます。
強者である期間は、人生のあいだで一時のことにすぎません。
弱者に強者になれと要求したり、
強者に抵抗することを要求したりできるでしょうか。
それができないからこそ弱者は弱者なのです。
だからと言って差別されたり抑圧されたりする理由はありません。
弱者が弱者のままで尊重されることを求めて当然でしょう。
フェミニズムは、同じである権利を求めるものではなく、ちがっていても差別されない権利を求める思想と実践なのです。
    「フェミニズムが開いた道」上野千鶴子著より

「ケアするもの」と「ケアされるもの」は非対称的な権力関係にある。
だからケアする者に権力が生ずる。権力の行使はそれをふるまう者に快感をもたらす。強者は弱者を、親は子どもを、上司は部下を、思うようにならないと虐待や迫害をする。上野さんはこう語る。

権力の濫用の誘惑に抗し続ける長きにわたるプロセス・・・・・それをケアと呼びます。ケアとは非暴力を学ぶ実践なのです。

母の世話をしているとどうしても高圧的になる。その非対称の関係が嫌だ。
母にしてみれば、世話にならなければならなくなった自分が嫌で苦しいし、
息子に悪いと思っている。
私は、自分は弱者だと思っていてもそれより弱者に対して高圧的になってしまう。
人には対称性を求める心性(心理)がある。
これをどう乗り越えたらいいのかずっと考えていた。
その答えの一つだと思う。

非暴力とは何もしないことではない。
一つの戦いなのだ。

岐阜県の災害史

1534年    10月13日    天文3年9月6日の大水害

『郡上川大洪水。流路を変へ、新川(現長良川)を生じ、家屋の流失、死傷者が多かった。長良川従来の河筋は、山県郡中屋にて右に流れ、太郎丸、高富、梅原を経て伊自良川を入れ、方県郡岩利より南流して今川、折立、黒野を経て、同郡木田村に至り、津保川下流(今の長良古川と称するもの)を入れ、南流し、尻毛、江口に流れていたが、此の洪水により激流は中屋村より陸地を押破り、戸田村、側島村等を貫通して、各務郡芥見村に至り、津保川に会し(中屋村より芥見村まで新川を現出)2川1大河となり、下流厚見郡早田村字馬場に於て、井水口を押し破り、更に新川(現今の本流井川と云う)を現出し、早田、今泉、若木、元池ノ上、東島、江口など諸村の地を貫通せり。然るに、後慶長16年洪水の時河道再び変じて本流は方県郡鷲山、正木の南を流るるに至りしも後、此の川も漸次埋り、元禄、寛永の頃より、水は主に井川(天文3年前は巾8間なりしと云う)に流れて現状に至りしものと云う。』

岐阜県災異誌 - 吉城高校地学部2002

 こういうサイトがあることを初めて知った。
1500年(天文年間)と(天正年間)に注目。

天文3年長良川の流域が大きく変わったこと。
これを見ると長良川と言うようになったのは何時からだろう。
鎌倉時代には長良を通っていなかったことになる。

天正13年の地震で白山が噴火したと思っていたら、地震(天正地震)だけで噴火はそれ以前だったという記録がある。

長良川は何度も流れを変えている。
1614年には新川ができたとある。
「江戸時代には旧長良川ができています。その旧長良川は、古川、古々川という3川に分かれていました。古川、古々川は、昭和8年の大工事で埋め立てられて、今の長良川の一本の流れになりました。」友人から教えてもらった。
昭和8年に旧長良川が埋められたというその痕跡の写真がある。
米軍の撮った岐阜市の航空写真1945年6月9日。
右上が金華山。右下に古い長良川の跡が浮かんでいる。

左側に長良川の昔の流れが浮かび上がっている

上の写真で左下の山が鷺山。下の写真で則武伊自良川(鳥羽川)と合流する

この写真は岐阜空襲の前に撮られたものだということに気がついた。
岐阜空襲(7月9日)では800人以上の方が犠牲になっている。

米軍の写真の出所
https://www.jmc.or.jp/photo/hyotei/21/5m277.html

こんな絵葉書もあった。


道三が最後に戦ったのは長良川のどこ?

参考 森氏編集鷲見家史蹟より
岐阜市歴史博物館

この現代の地図で古長良川の流れがよくわかる。

「鷲見氏・鷲見郷一覧」の編集作業

まだ途中だけど、目途をつけようと印刷。印刷だけで一日がかり。
もちろん修正は一日では終わらない。
漢文のレ点などをつけるのは、どこかわからなくなってくる。
そしてパソコンに目を凝らしていると見えなくなってくる。

(目が疲れたので散歩。普通の靴でかなりのところまで行けた)

さらに疑問が次から次へと出てくる。
特に系図があまりにも違いすぎる。
それは当たり前かもしれないけど。
印刷して160ページをめくっていると、ここはもっと・・・と欲も出てくる。

鷲見氏の紋を載せたいのだけれど、どれにしようか迷っている。
「剣花菱」だからこの写真が一番きれいかな。

今回鷲見氏のことをずっと調べている方がいて、その調査の結果をまとめたテキストをいただいた。これがすごい。一人であちこち回り現地の写真を撮っておられる。

上の紋もその方から。

白鳥町史資料編を見ていたら次の文書があった。

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長滝法幢坊文書より

鷲見氏保書状

就長滝寺之儀付而、重而治部卿殿を以蒙仰候、先以畏入り候
一 日御料出之儀、如前ゝ異後迄、無別儀、竹本坊可申付候、従惣寺被申候由承候、得其意存候
一 買地並門前役所之儀、右二如申候、竹本坊三代相見仕候間、不及覚悟候由難申候、御異見之事候間、惣寺へ返申候、我等儀、同前二而、如御意、満山於入魂者、向後之儀別儀有間敷候
一 先度如申入候、従惣寺国中へ許諾被申候儀二付而、若従国中、竹本坊へ違乱之儀、被申候者、無疎略段、可申分候、其旨申入候処二、帰雲二御意得給候由承候、肝要候、委細治部卿殿申入候間、令省略候、恐惶謹言
   九月廿日           氏保(花押)
「天文二年癸巳」異筆
                 鷲見
                   氏保
 照蓮寺 貴報

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氏保は1444年に亡くなっているけど、これを見ると長龍寺の竹本坊や白川郷の照蓮寺との関係もあったことが解ってくる。

学びの三角形と学びの四角形

「学びの三位一体」という三角形がある。

対象世界はいろんな対象世界があります。
たとえば、数学、サッカー、あるいは日本の古典の世界でも何でもよいのですが、そういった対象世界を学ぶという時には、一人で学んでいるわけではなくて、その場に居合わせるかどうかは別にして、他者とともに学んでいるわけです。たとえば、他者にとってはおもしろいことが自分にとってはあまりピンとこない、おもしろくないと思えたり、あるいは自分がスラスラできることが、他の人は結構手こずっているといったことを経験する中で、自分はこういうことが好きだとか、こういうところに魅力を感じるとか、自分はこういうところが得意だったのか、と気がつきます。自分はどういう人間なのかということも見えてくるわけです。そういうわけで、対象世界を学ぶということだけが学びなのではなく、他者との関係をつくり、それを通じて自分自身がどういう人間なのかがわかっていく、このような 3 つの関係の編み直しが同時に並行的に起きていくこと、それが学びなのだということを、佐藤さんは「学びの三位一体論」と呼ばれたわけです。めざす方向としては「活動的で協働的で反省的な学び」という言い方もされています。(松下佳代氏)

これは実践的には
「二項対立に見える関係にもう一項を加えてみると展望が開ける」
ということで、世界の構造をとらえる最も単純な図である。
こういう三角形で世界を見るとわかりやすいということが売りである。
ヴィゴツキーの三角形も同様である。

これと「回り道のモデルの四角形」とどう違うのだろうか。

   A自己 ⇨ B他者
    ↓     ⇩
   D( )⇦ C対象

実はこれも三角形(A=Dとすれば)に表すことができる。
が、自己や対象や他者は働きかけることで変わってきている。
つまり、Dは変わったBやAやCであって、実践の結果としてとらえることができる。
認識の変化をとらえた図式が四角形だとすると、わかり方を構造化したものと言える。

母が転んで歩くと痛がっている。
今日は入金や支払いであちこち。

「老人と海」

オンラインでの東海・北陸地区セミナー
「鷲見氏・鷲見郷一覧」の編集会議
教え子からのヘルプの電話
いろいろあった一日だったので、疲れ果てて夕食はインスタントラーメン。

放送大学でヘミングウエイの「老人と海」の読み取りをしていた。
ふと、これも「回り道」モデル図式が当てはまると感じて図にしてみた。

キューバ現実  ⇨  老人と海」という文学作品
   ↓          ⇩(解釈共同体による解釈の違い)
浮かび上がる現実 ⇦  作品の批評や映像化など
(どう解釈されたのか、映像としてどう表現されたのかも含めて)

ここには植民地主義の二重の暴力と「取り換え」が表現されているということだが、何となくしっくり表現されていると感じる。

こうやって図にしてみると見えてくることがある。
それは最初の現実が、作品を通して変化してくることだ。
だから「↓」の矢印は、この図式のすべてをテキストとして変化していることをも示している。

来世の幸福よりも現世の幸福を?

年賀状を見ていると時々刺激を受けるコメントに出会うことがある。
「100分で名著で『日蓮の手紙』を見て、宮沢賢治がなぜ日蓮宗なのかよくわかりました。来世よりも現世の幸福を考えていたのですね。」

なるほどと感じ、でも・・・と、正月のぼけた脳に刺激を与えた。

1、「浄土真宗は来世の幸福と現世の幸福についてどう考えるのか」
  という問いが浮かび上がる。そして、浄土真宗はかっては来世の幸福を願う面
  があったことは間違いない。

2、本来は「現世の成仏」と「来世の成仏」の対比だったと思うのだけれど。
  そして、来世の成仏は現世の幸福とは切り離せない。

3、この娑婆を少しでも良くしようとすることは大事なことだ。
  しかし、現世を仏国土にすることは、かっての理想化した社会を創ろうとして
  かえって悲惨な結果となった歴史を忘れてはならない。

4、例によって回り道モデル図式で表してみる。

    私=現世  ⇨ 浄土=仏の慈悲
     ↓ 行動     ⇩ あなたが救われないと私も救われない
  私のあるべき姿 ⇦ 私の本当の姿

「あなたが救われないと私も救われない」という言葉は仏の願いのことばである。
これを誓願とか本願とか大悲大願とか大慈大悲とかいう。

尽十方無碍光の
大悲大願の海水に
煩悩の衆流帰しぬれば
智慧のうしおに一味なり

 

107歳の生

福手豊丸さんの通夜のお参りに行った。
法話で聞いた豊丸さんの言葉は心に響いた。
ここに記録しておく。

生きることは苦しい
生きることは楽しい
生きることは尊い

100歳になって聞こえなくても行事に参加していた。
「何も聞こえんけど雰囲気からわかる」と言われた。
ずっと前に開拓の苦労話も子どもたちといっしょにお聞きした。
帰りにご著書を頂いてきた。