ケアとは非暴力を学ぶ実践

母の世話をしていて感じていることを見事に表現した言葉に出会った。

人は弱者として生まれ、弱者として死んでいきます。
強者である期間は、人生のあいだで一時のことにすぎません。
弱者に強者になれと要求したり、
強者に抵抗することを要求したりできるでしょうか。
それができないからこそ弱者は弱者なのです。
だからと言って差別されたり抑圧されたりする理由はありません。
弱者が弱者のままで尊重されることを求めて当然でしょう。
フェミニズムは、同じである権利を求めるものではなく、ちがっていても差別されない権利を求める思想と実践なのです。
    「フェミニズムが開いた道」上野千鶴子著より

「ケアするもの」と「ケアされるもの」は非対称的な権力関係にある。
だからケアする者に権力が生ずる。権力の行使はそれをふるまう者に快感をもたらす。強者は弱者を、親は子どもを、上司は部下を、思うようにならないと虐待や迫害をする。上野さんはこう語る。

権力の濫用の誘惑に抗し続ける長きにわたるプロセス・・・・・それをケアと呼びます。ケアとは非暴力を学ぶ実践なのです。

母の世話をしているとどうしても高圧的になる。その非対称の関係が嫌だ。
母にしてみれば、世話にならなければならなくなった自分が嫌で苦しいし、
息子に悪いと思っている。
私は、自分は弱者だと思っていてもそれより弱者に対して高圧的になってしまう。
人には対称性を求める心性(心理)がある。
これをどう乗り越えたらいいのかずっと考えていた。
その答えの一つだと思う。

非暴力とは何もしないことではない。
一つの戦いなのだ。