岐阜県の災害史

1534年    10月13日    天文3年9月6日の大水害

『郡上川大洪水。流路を変へ、新川(現長良川)を生じ、家屋の流失、死傷者が多かった。長良川従来の河筋は、山県郡中屋にて右に流れ、太郎丸、高富、梅原を経て伊自良川を入れ、方県郡岩利より南流して今川、折立、黒野を経て、同郡木田村に至り、津保川下流(今の長良古川と称するもの)を入れ、南流し、尻毛、江口に流れていたが、此の洪水により激流は中屋村より陸地を押破り、戸田村、側島村等を貫通して、各務郡芥見村に至り、津保川に会し(中屋村より芥見村まで新川を現出)2川1大河となり、下流厚見郡早田村字馬場に於て、井水口を押し破り、更に新川(現今の本流井川と云う)を現出し、早田、今泉、若木、元池ノ上、東島、江口など諸村の地を貫通せり。然るに、後慶長16年洪水の時河道再び変じて本流は方県郡鷲山、正木の南を流るるに至りしも後、此の川も漸次埋り、元禄、寛永の頃より、水は主に井川(天文3年前は巾8間なりしと云う)に流れて現状に至りしものと云う。』

岐阜県災異誌 - 吉城高校地学部2002

 こういうサイトがあることを初めて知った。
1500年(天文年間)と(天正年間)に注目。

天文3年長良川の流域が大きく変わったこと。
これを見ると長良川と言うようになったのは何時からだろう。
鎌倉時代には長良を通っていなかったことになる。

天正13年の地震で白山が噴火したと思っていたら、地震(天正地震)だけで噴火はそれ以前だったという記録がある。

長良川は何度も流れを変えている。
1614年には新川ができたとある。
「江戸時代には旧長良川ができています。その旧長良川は、古川、古々川という3川に分かれていました。古川、古々川は、昭和8年の大工事で埋め立てられて、今の長良川の一本の流れになりました。」友人から教えてもらった。
昭和8年に旧長良川が埋められたというその痕跡の写真がある。
米軍の撮った岐阜市の航空写真1945年6月9日。
右上が金華山。右下に古い長良川の跡が浮かんでいる。

左側に長良川の昔の流れが浮かび上がっている

上の写真で左下の山が鷺山。下の写真で則武伊自良川(鳥羽川)と合流する

この写真は岐阜空襲の前に撮られたものだということに気がついた。
岐阜空襲(7月9日)では800人以上の方が犠牲になっている。

米軍の写真の出所
https://www.jmc.or.jp/photo/hyotei/21/5m277.html

こんな絵葉書もあった。


道三が最後に戦ったのは長良川のどこ?

参考 森氏編集鷲見家史蹟より
岐阜市歴史博物館

この現代の地図で古長良川の流れがよくわかる。