チャイニーズ・リング

新聞の記事を見ていたら面白そうだったので作ってみた。
針金で作ってみたけど、30分もかからなかった。
そういえば下駄で同じようなものを昔作ったのを思い出した。
チャイニーズ・リングという名がついていたような気がする。
つれあいにやってもらったら、案外難しいようだ。
今度子どもたちにやってもらおうと思っている。

今日いろいろ語り合っていて気がついたことを記録しておく。

人間よりもAIの方が勝れている所はたくさんある。
では、AIよりも人間が勝れている所は何だろうか?
ヘレン・ケラー体験ができるところ
一人一人の体験がみんな違うということ
 個の体験を突き詰めた時にそれは公の体験として共有される
 AIは個の体験ではなく全てのデータを取り込んでいるから、個という概念がない。
 これはもっと追求してみたい問題だということに気がついた。

 例えば間違うところ、勘違いするところ、忘れるところ、などなど。
 それから徹底的な個人のデータを集めた個人AIを作ったら面白いかも。

カタクリ

庭にカタクリが一つだけ咲いていた。
去年はもっと沢山咲いていたような気がする。
母が居なくなってから、シャコバサボテンも咲いたけど元気がない。
ランは咲かなかったし、一つ枯らしてしまった。
植物は世話をする人の気持ちにちゃんと応えるのだろう。

花粉を我慢しながら寺の庭の落ち葉と花壇の手入れを行った。
次から次へとやることが見つかってくる。

ゆきがとけた
はなとかぜのこえがする
むしととりがとんでいる
ねんぶつのこえ
あるはるのひ

 

ノーマルタイヤとスタッドレスタイヤ

永代経の案内を配布した。
良い運動になった。

タイヤ交換をする前に、調べようと思ったことがあった。
スタッドレスのタイヤは少し大きいような気がしたので、どれくらい距離が違うのか調べようと思ったのだ。

八幡から高鷲までの距離を測ることにした。
スタッドレスで 31.7km
ノーマルで   32.0km 32.8km
高鷲から八幡まで
スタッドレス  31.2km
ノーマル    31.7km  31.9km(ほぼ決まり)

そもそもスタッドレスで行きと帰りで500mも違う。
もっとデータをとるべきだったけど交換してしまった。
とりあえず往復の平均をとるとスタッドレスは31.5kmでノーマルは32.0km
つまり500mノーマルの方が長い。
500m/30000m=1/60の割合(60mで1m差が出る) 案外大きい。

つまり、タイヤの半径が小さい方が距離が長くなっている。
ということは車は回転数で距離を測っていることになる。
つまり、スタッドレスの方が1/60だけ大きいということになる。

本当かどうか計算してみた。
半径が0.5㎝違うと、タイヤの円周は2πrだからπ㎝(3㎝)
つまり1回転で3㎝差が出る。(半径1㎝違うと6㎝)
10000回転で300m。その時の進んだ距離は60000rm。
半径が30㎝(実際は29~28.5cm)とすると18000m。
16000回転で480mで進んだ距離は30km。
どうやら計測した値500mはほぼ正しいようだ。

次に、燃費を調べてみる。
というのは距離が短くなるわけだから燃費が下がる。
どれだけ下がるのかを計算してみる。
仮に32㎞で30㎞/㍑だから、使った燃料は32÷30=1.07㍑。
使った燃料を同じとすると、31.5÷1.07=29.4㎞/㍑
そんなに影響を与えるほどではないが、確かに燃費は下がる。
実感的にはスタッドレスだと28㎞/㍑ぐらいだと感じるので、タイヤの抵抗の方が影響は大きいのだと思う。
この計算は時間がかかった。頭の体操。

昔作ったわらじが出てきた。身体は作り方を覚えているだろうか。

孫が履いて痛いと言っていた。

私の中の私たち

この頃、昔読んだ本を取り出して読んでいる。
どんなことが書かれていたのか忘れているからだけど、それを再び取り出すのは気にかかることが浮かんでくるからだ。

今も新刊を何冊かを同時に読み進めているけど、それらがどう融合するのかが楽しみ。
そして、昔読んだ本がどういう位置づけにあるのかを確かめることは自分自身の経暦の振り返りになる。

A、記号接地問題から「ヘレン・ケラー体験」…基本的な体験
B、我々の持っているアブダクション推論…対称性推論ができることの功罪
C、認識におけるプロジェクションの働き…入力するだけではない
D、仲間のはたらき…私の中の私たち

いろいろ彷徨っていたらこの最後のDへ行きついた。
私たちの認識は様々な人たちの影響を受けている。
これを場所の働きととらえても良いし、社会の働きととらえても良いし、
コトバ(記号)の働きととらえることも可能である。
ただ、私の興味関心は私が「わかる」ということなので、「仲間のはたらき」に絞る。

この「仲間」が何であるのかは曖昧にしておく。
だっていろいろな場所でいろいろな仲間がいるから。
そして、本を読むことは今ここにいない仲間とも語り合うことになっている。

今再読しているのは乾孝氏の「私の中の私たち…認識と行動の弁証法」という1970年代に書かれた本。
50年以上前の本だけど、40年前に買って読んだときに、「回り道」を思いついた。
覚えているのはこの部分だけしかなかったけど、何だか気になって本箱から引っ張り出したのだ。
この中にこういうことが書いていある。

「あなたは、ものを言わなければならないような必要を持つ前に、ことばを教わってしまった。」(伝えたいものがあるからことばを作ったのではない)
「(赤ん坊である)私は予想が立たないけれども、私の身のまわりのおとなたちは、絶えず私をとりまいている現状から一瞬さきを予言しながら私を育ててくれた。」
「生まれ落ちたばかりの人間というのは、チンパンジーよりはハツカネズミに似ている」(赤ん坊は何もできない偉大なる可能性の前にたじろいでいる能なし)
「われわれは、自分が予測する能力を持たないうちに、すでに現状を乗り越えたかたちで自分を統制するくせがついている。そこへことばがやってくる。」
「・・・いつのまにやら対話のできる動物になってしまう。・・・頭の中にもおふくろの頭と同じ言語信号のシステムをたたきこまれたときに、私の脳みそははじめて人間の脳みその名に値する働きを始める。」
「だから、人間の大脳というのは、一つだけでは何の意味も持たない。仲間とつながってはじめて意味を持つという不思議な生理を持っている。」
「そのものを認識することは…そこにいない仲間に伝えることのできるかたちに整理していくこと。だから、時間点を異にした自分に語りかけることにもなっている。そういうふうにして、公共のものに整理することが、まさに人間的な認識なんじゃないか。」

例えば数学の言葉を使うということは公共のものに整理することであり、
そのように整理して表現することがわかるということ。

「自分自身の認識として深めることは、私自身の中にいる仲間たちと分け合うことのできるかたちにすること。つまり、個性化していくということは、実は一般性をそこで勝ち取ること。」
「与えられた客観的な事実(現実)を大切にし、それに対するいくつかの意見を最後まで相談していく。自分の主観に対立してどうすることもできないその事実を大切にし、その事実から目をそらさないこと」

何だか当たり前で古くないような気がするし、無自覚にこのことをやってきたような気がする。

わくわく図書館

3月のわくわく図書館には8名の参加。

何時ものことながら面白い。
だって次から次へと問題が見つかるから。

自治とは何かから昔の農村に自治はあったのか。
明治維新とは農村にとって何だったのか。
農本主義は新しい道を切り開いたのか。
有機農業」が記号化され市場化されるという仕組みは何か。

いろいろなことを話し合ったけど、そもそも話し合いって何だろう。
宮本常一の「忘れられた日本人」にとことん話し合う人たちが出てくる。
それは自分自身の体験を話すという最も基本的なコト。

では私たちはそういう話し合いをしているのか。
そして時間をかけて他人の体験を聞いているのか。

このような言葉がある。 
一人で読んだら自分を商品化する方向へ100歩行ける。
 だけど、10人で読めば人間回復の方へ10歩近づける。

ほっと寺ス(今年度最後)

ほっと寺スがあった。
今回は幼児も入れると9名の子たちが参加してくれた。
最初にステゴザウルスの敷き詰め。
これが難しくて小さい子どもたちは飽いてしまった。

一時間で昼食。
干し柿も食べた。

昼からは敷き詰めを長方形→正三角形→平行四辺形→四角形→正六角形→正五角形
とやって、方眼の小さな正方形がいくつあるのかを求めた。
長方形→平行四辺形→三角形→台形→(台形の公式は全てを含む)
最後までやったのが中3の子だけ。
彼女は卒業して4月から岐阜の高校へ進学する。
とても賢い子なので自分の道を切り開いていくだろう。

昼休み、子どもたちは竹馬や縁の下で遊んでいた。
やっぱり子どもたちの声がする寺は幸せだ。

久しぶりに教材を作成した。
すきまなく敷き詰められる図形は?
長方形をユニークにきれいに敷き詰めてみよう。

ちなみに正五角形は平面では敷き詰められないけど、空間ではピッタリ敷き詰めることができる。
116、籠目(カゴメ)編みとフラーレン
        ・・・セパタクローからサッカーへ  (2010.3)

次の台形や平行四辺形の中に小さな正方形はいくつあるだろうか?

方眼の工作用紙を使うと、いろいろな体験ができる。
学びが広がると思う。

 『四角形の面積を求める公式』