白川郷が下田村を訴えた裁判の結果

午前は病院、午後は大和古文書読ままい会に参加。
高鷲と八幡をいったり来たり。

剣村留帳を読んでいて、幕府の裁許書がいよいよ下りるというので期待していたら、
本宿の旅籠屋(はたご)以外では泊まってはいけないというコトが書いてあるだけ。
これでは双方納得できないだろうとがっかりしたが、
良く考えてみれば、それぞれの担当の奉行が述べるので、それをすべて記憶し記録することはできないので、とりあえず剱宿に関することを書き留めたのだろうと考えた。
(裁許書はそれぞれが書きとるように奉行所が勧めていた)

実際これを述べたのは、道中奉行を兼ねた寺社奉行。その外勘定奉行が多数いる。
とすると、本宿はどこかというコトが気になる。(剣・八幡・下田)
郡上街道では剣宿、下田宿ということだろう。
というコトは、六厩村の人たちは福野村に宿をとったので、定法に外れているということで敗訴というコトではないかと予想される。
これを確かめたくなってきた。美並村史、白川村史を調べて見なくてはならない。

8月から11月まで足掛け4ケ月に及んだ裁判も決着がついた。
その間の滞在費や裁判が無い時はどうしていたのだろうかと話題になった。
この裁許は幕法をそのまま当てはめたものであるが、剱村にとってはお墨付きをもらったようなもの。

ちなみに白川郷が下田村を訴えたのは、
白川郷から油荏(えごまの油か、その外硝煙、タバコの葉)を牛に運ばせて上有知村(こうずち・美濃市のこと)まで運び塩や茶を買ってまた帰っていくけど、下田村の者が泊った福野村へ押し寄せてきて荷物を差し押さえた。というのは下田村を通らずに大矢村から川を下って直接美濃市まで行って荷駄賃を払わなかったから。これに納得いかなかった六厩村の代表が訴えたもの。そして関係する町村の庄屋等も江戸に呼び出されている。」
白川郷としては口役銭や駄賃を少しでも少なくしようとしたのだろう。

調べたら美並村史資料編にちゃんと裁許書が載っていた。

まとめると
それぞれの言い分を認めたうえで、公的に決められた継場は剣、八幡、下田である。満水や道橋の破損の時は福野や大矢をとおっても差し支えないが、本宿である下田を通るのが筋である。口銭については相対(あいたい)で相談のうえのことなので沙汰に及ばず。下田村が差押えた荷物は白川側にちゃんと返すこと。今後仲良くやるように。
と言っている。

美並村史には訴え状や返答書や裁許書は載っているが、途中の評定所の詳しい様子は書かれてない。でも、引合い(証人)で行った剣村留帳には評定の内容が詳しく書かれているので、江戸の評定所の様子や内済(示談)の状況もわかる。

なお、飛騨の代官大原彦四郎は大原騒動を起こした張本人。やがて郡代となる。
白川郷に照蓮寺領があったことにびっくり。

「白川郷十八ケ村と下田問屋運送争い」江戸での裁判の経緯について