上からの公共圏と自らの公共圏

東井師の「生活の論理」における主体性を考えていたら、
ひるがの開拓に苦労された方の葬儀に立ち会うことができた。

ひるがの開拓は満州移民と深い関係がある。
満州移民は凌霜塾と関係がある。
凌霜塾も一つの公共圏だ。
それと、戦後のひるがの開拓の公共圏を比べてみると類似性と相違性がはっきりと見えてくる。

満州からの帰還の苦労とひるがの開拓の苦労を乗り越えたそのちからは次の歌に示されている。
「堪えがたき世紀の苦難乗りこえし その力もて邑創りせむ
 いざ友よ 共に築かむ日留ケ野に 乳と蜜との流るる里を」

彼らは苦難をのりこえて乳と蜜の流れる里を創造した。
それはまさに文化の邑づくりであった。
そして、その中核となったのが女性たちである。
この公共圏を創造する中で果たした婦人会誌「りんどう」の働きは大きい。
「食糧難のなかペンをとり、書く主体となった女性の目覚め」
「戦前青年団は更生計画や外部の名士がお膳立てした公共圏で活動した結果、「理想郷」を目指しながら満州侵略へ突き進んだ。これに対して、戦後婦人会は自らが公共圏を構築することで、「理想郷」に向けての着実な歩みを進めた。」
ここでは、
上からの公共圏が自らの公共圏へ」となるにあたって
主体となることが書く主体となることへ」と書くことが果たした「はたらき」が重要であったことがわかる。