記録と記憶

8月に入ってから訪ねてこられた人が、親たちの墓を引き取りたいと語り始めた。
この方は80歳で、墓にはお骨は無いと。
そのわけを聞いていたら、これはちゃんと記録しておかなければと思うようになった。
 
このお墓に遺骨が無いのは、遺骨を持ってくることができなかったから。
昭和18年ごろに満州へ一家7名で渡る。
昭和20年8月15日から昭和21年に日本へ帰るまでの苦労をお聞きする。
ただ、ご本人は小学校3年生で、はっきりとは覚えていないことも。
 
20年の冬を越すことが大変だった。
食料もない、集団で西へ移動していたのだが、住むところもままにならない。
半数近くの人が亡くなった。
その原因は、栄養失調などによる腸チフス
 
 21年1月から、父、母、姉、そして9月には兄と。
残された子どもはご本人と姉弟の3人。
4名の方の行年を過去帳に書き込んだ。
開拓団の人たちに助けられてようやく日本に帰ってきた。
だから遺骨は持ってくることができなかった。
 
そういう話をお聞きして、無縁仏並びに共同墓地の盆の法要で忘れないで欲しいとお話したら、
一緒にいたという方が寄ってこられてその時の様子を語り始めた。
 
懐かしい、何年もあっていないからぜひ会いたいと思っていたと。
そして、9月に亡くなった兄さんの最後の様子を語り始められた。
身体は衰えているわけでは無かったけれど、うつる病気で隔離された。
その車で連れ去られて行くのを見たのが最後だった。
 
亡くなった人を、埋めることも地面が凍っていて出来なかった。
親たちは、子どもを一人一人現地の中国の人の家庭に頼んであずかってもらった。
私(当時12歳)はその家ではたらきながら食べさせてもらった。
他の兄妹も7か月の間それぞれの家で養ってもらっていた。
そのおかげで、やっと冬を越すことができた。
 
だから、中国から研修に来ている若者を見ると、
家にある余分な石鹸やタオルなど日常品、お菓子などの食料を持って行ってあげる。
あの時のお礼と思って。
・・・