和讃と和歌

プチ法話の準備をしていて、気がついたことがある。

発端は「俳人の辞世の句をオリガミ六角形にする」ことなのだが、
そこから和讃をオリガミ六角形にしようと考えて、
あまりの難しさに断念した。
 
それは、内容にあると思って、親鸞さんの和歌ならできるのではと考えた。
ところが、親鸞さんの和歌を調べていたら、有名な「明日ありと思う心の・・・」
もご自身の歌とは言えないらしい。
親鸞さんが和歌を作らなかった理由が、「親鸞聖人正明伝」にはエピソードとして書いてある。
 
しかし、「仏法の表現として」和讃を選ばれた理由があると思うようになった。
親鸞さんはなぜ和歌を作らずに和讃を作ったのか」
 
まず、和歌と和讃の違い
   和歌       和讃
1、57577     75757575
2、57調       75調
3、優雅       リズミカル
 
次に5757調の歌を調べてみた。
これが極めて少ない。
 「名も知らぬ 遠き島より
  流れよる ヤシの実一つ
  故郷の 岸を離れて
  汝はそも 波に幾年」
君が代ぐらい
 
ほとんどの歌が7575調である。
平家物語の冒頭の句は75調である。
いろは歌」も「黒田節」も「君死にたまふことなかれ」も75調。
「荒城の月」も「水戸黄門」も「瀬戸の花嫁」も75調。
私たちの身体のリズムに染み込んでいる。
 
では、表現はどうなっているのだろう。
 「富めるものの 訴えは 石を水に入るが ごとくなり
  乏しきものの あらそいは 水を石にいるるに にたりけり」
 「罪障功徳の 体となる 氷と水の ごとくにて
  氷多きに 水多し 障り多きに 徳多し」
というように、和讃は対句表現ができる。
極めて漢文的なのである。
 
また、4句一首だけでなく、連続した、長歌の様に表現できる。
 「一切菩薩の のたまわく われら因地に ありしとき
  無量劫 へめぐりて 万善諸行を 修せしかど
  恩愛はなはだ たちがたく 生死はなはだ つきがたし
  念仏三昧 行じてぞ 罪障を滅し 度脱せん」
この例はもっと長いものもある。
 
ここまで調べて検索してみた。
 
というサイトを発見。
まず、言語へのとらえ方に共通するものがあると述べている。
一遍さんにとっては、さとりの表現・さとりへ導く手立てとして和歌が最適だった。
 「となうれば 仏も我もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 
親鸞さんにとっては、自己存在の罪悪性と仏の大慈大悲大智の間の矛盾は
切り離せないものであって、矛盾した二つの面を同時に表すためには
和歌よりも和讃の方が適切であったと述べている。
親鸞さんの思想と和讃という表現形態は切り離せないものだったのだ。
 
 「良し悪しの 文字をも知らぬ 人はみな まことの心 なりけるを
  善悪の字 しりがほは おおぞらごとの かたちなり
  是非知らず 邪正もわかぬ この身なり
  小慈小悲も なけれども 名利に人師を このむなり」
 
この和讃は、575のリズムも入っている。
思想がリズムを通じて身体に入ってくる。