表現としての和讃…民衆と仏法と

涼しくなって、過ごしやすくなってきたが、
夜眠ることができないので、つい薬の世話になっている。
 
さて、ここ数日二つのテーマを同時に追求している。
一つは、親鸞和讃の読み方
もう一つは、七里恒順和上のことから、真宗における処世の道
 
和讃の読み方は、以前に書いた対句と句切り、そして原文の本歌取りがあるとわかった。
本歌取りは、経典や偈を和讃により分かり易く書きかえる試みだ。
原文との対比が求められる。
読んでいると、より深い読みができることに気がつく。
 
私はあくまで「読み」として和讃を追及しているが、
もう一つ身体表現としての和讃がある。
これは、仏教では密教的な面から追求されてきた。
ただ、それは芸術的ではなく、あくまで仏教として追求されてきた。
本来は仏法讃嘆であったのだが、
それが民衆に広まってきた契機に念仏と今様がある
 
梁塵秘抄を思い出して、調べていたら、桃山晴衣さんの音声とであった。
表現と仏法と民衆の融合されたものであると感じた。
梁塵秘抄の演奏はとても心に響く。
民衆の中に広まらないと大悲も大悲にならない。
 
その中に、
桃山晴衣と立光地区児童/わらべうた語り・郡上の伝説 」
の動画があった。
懐かしい人も出ている。
 
真宗における処世の方は次回に。