「ラジオの譬え」は何を示しているか

「ラジオ」を使った面白いメタファーがある。
この譬えの面白さを味わっていただきたい。
 
「文明とは無縁の原始的な暮らしをしている部族の前にラジオを置いてみた。
すると、その部族は「お、何かこいつしゃべっているよ」と言って、さらにラジオのつまみとかを動かしてみる訳です。当然つまみによって、しゃべったりしゃべらなくなったりしますから、それを見て「すげえ、こいつ」と語り合う。そしてそのラジオに石が当たって壊れると、急に音を出さなくなることをもって、「ああ、死んじゃった」と思ってしまう訳です。
 だけど、実際の仕組としては、ラジオはラジオ波を受けて音を出しているだけですよね。つまり、ラジオは音を媒介しているだけで、考える主体ではないわけです。考えている主体はラジオの外にあって、ラジオは肉体にすぎない。
 ラジオを壊したら音がしなくなる、という現象を通して、「考えているのはこいつ(そのラジオ)だ」と、部族の人は発想するのですが、実は考えている主体は全然違う所にいますから、たとえこのラジオが無くなったとしても、違うラジオで受信できたりする訳です。
 僕らは普通、脳が停止したら心も消えるから、脳に心があるという風に考えるわけですけど、ひょっとすると、このラジオの場合のように、心の本体は脳を超えたどこかにあって、それがたまたま脳に現れているだけという可能性もある。少なくとも、脳が停止したら心が消える、というのは、脳に心があるということの証明にはならないわけです。」
 
この譬えは仏教の思考方法と矛盾はしない。(空・無自性)
一見唯物論的なのだが、いつの間にやら超越的なものを想定してしまうところに戸惑うかもしれない。
ラジオも複雑な構造を持ち、その機能が働いている限りにおいて、受信して人間のようにしゃべる。
 
この譬えの面白さは、原始的な暮らしをしている人と私たちが、逆の意味で同じであるということを示していることにある。
私たちはラジオは受信機だと思っているけど、私たちも同じ受信機ではないかという点が理解できないのでは、原始的な暮らしをしている人よりも本質をつかんでいない。
 
私たちが、アンテナをはって、同じようなことを考え、同じような発見をしている受信機であるという対比がついた時、この譬えは働き出す。
 
ただ、この譬えは、受信機に電波を発信しているモノが何かをさらに考慮しなければいけなくなるところが難点である。
それを神というか、宇宙というか、大生命というか。
 
どなたかこの譬えの矛盾点を教えていただきたい。