映画もメタファー

「やさしい日本経済」という市民アイディア講座を受講している。
以前一緒だった先生の、経済と日本の戦後の歴史の講座である。
その経済の歴史の中で、映画の話が出てくる。
これがとてもいい。
 
映画はその時代の状況を示してくれる鏡なのだが、我が講師の場合は、映画論にもなっている。
そういえば、ずっと前に、名古屋まで二人でロシア映画を見に行ったことがある。
映画の見方を教えてくれた恩師でもある。
 
この前は、「小さなおうち」を取り上げていた。
映画というのは、実写だからそのまま出来事を示していると思うのは間違いで、
メタファーや物語の強調など文学と同じようなものがある。
 
例えば、全部を示さないで、あるものをもってそのことを想像するという手法をとっていると
我が講師はおっしゃる。
奥さまの帯の模様の位置が、恋人の所へ行く前と後では変わっていた。
それだけで、何があったのかを想像させるという。
 
この映画は女中さんの視点で描かれるのだが、
我が講師の話はそこから19世紀のイギリスのサーバント(召使)の話にまでとぶ。
1861年当時、イギリスの労働人口は800万人。
農業109万人、繊維64万人、炭鉱・金属鉱山56万人、金属工場39万人、召使120万人
なんと、召使階級が圧倒的に多い。そのうち男は26万人。
これは、マルクスが調べたことだ。
 
サーバントは、「イエスサー」と言われたとおりに行う。
しかし、女中さんは言われた通りにはしないことがある。
そこが違う。この女中さんも自主的に考えて行動する。
そして、戦後その行動を悔いることになる。
・・・とどんどん広がり、そしてつながっていく
 
こうやって戦前の日本の中産階級の生活が浮かび上がってくる。
これは取り上げ方のレトリックの妙味。