斎藤幸平氏に至る私の来歴

細かい雪が互いに舞いながらザーザーと降り積もっている。

こういう雪は積もるものだ。
本堂でお勤めをしていると、突然尿意(これが痛い)を感じる。
走ってトイレに駆け込むけど間に合わない。

ここの所、いろいろな人と斎藤幸平氏の「資本論」について語り合っている。
「学び」は集団的なものだ(だからこそコモン)ということを身をもって実感している。こういうときにメールはとても便利。一人で本を読んでいても、ものぐるほしくなるだけ。

それにしても100分deを見ている人の多いこと(私の周りには)。
原典は難しくて読むことはできないけど、その考え方やスタイルや技法を知りたいという人が多いということだと思う。そして、この現状はおかしいと感じている人も。

私自身の来歴をたどってみると

(1) 小泉政権の時の民営化の嵐の中で、教育も市場化された。
 「これはいったい何なんだ」とすがったのが、佐藤嘉幸氏の「新自由主義と権力」
 これは原典を書き写しながら読んだ。
  「新自由主義と権力」  「器官なき身体」?
 
これを振り返ると、わかりやすさというのはとても大事だということがわかる。

(2) リーマンショックの後に格差がますます広がり、それをどうしたらいいのか指針を与えてくれたのが、ピケティ氏の「21世紀の資本」もちろん読まずにネットやTV・ビデオ(ユーチューブだったかな)で見た。
こんなに格差が広がったのは歴史的にみると最近のこと、戦後すぐは最も格差が少なかったということを知った。「21世紀の資本」ピケティの講義を見る

(3) 100分deのブルデュー氏のデスタンクシオン
 もちろん原典は読まない。階層(格差)について並大抵ではないことがわかった(文化資本ハビトゥス)。
 この時、講師の岸さんが紹介したのが「ハマータウンの野郎ども」
これはずっと前に買って読んだんだけど、忘れ去っていた。その中に労働とは何か、精神労働と肉体労働は分けられないものなのに、精神労働の方に過労死が多いのはなぜか見事に分析してあった。

(4) そしてこのコロナ禍の中での斎藤幸平氏の「資本論
 これらを見事にまとめている。
 こうやって振り返ってみると、必然性のようなものを感じる。

 この中に大事な概念として「包摂」がある。