月曜の朝の憂鬱と希望

この見出しは最後の第八章のものである。
ハマータウンの野郎どもにやられている良心的な労働者である教師への言葉として。

AIの予想に、これからAIとって代わられる仕事というのがある。
それはAIが優れているからとって代わられるのではない。
むしろそのように私たちの労働そのものが変質(マニュアル化)させられたからである。

AIには労働とは何かはわからない。
そして、マルクスほど労働の本質について考え抜いた人はいないだろう。
これについては1月の名著deに斉藤幸平氏マルクスを取り上げるという。
楽しみにしている。

ハマータウンには、男女の差と肉体労働と精神労働の差が家父長制と結びついていく様子を丁寧に分析している。

そして、さらには「他との比較において自己を優位に立たせる」という性質から二重の分断を引き起こす(移民労働者に対して)ことを述べて(予言して)いる。

例えば、精神労働と肉体労働は(その区別さえも幻想なのだけど)、資本制生産様式(能力主義)では、精神の方を優遇する。したがって、精神労働により厳しい働きぶりを要請される。
これが精神労働の方に過労死が多い一因であるが、それは精神労働を価値とする支配イデオロギーの物差しを受け入れて、優位の部署を獲得でき、それに応じた優越感に浸ることもできるからだ。

そうすると、肉体労働に従事する人は少なくなっていくはず、なのにそうではない。(これはイギリスでの分析)
それは、肉体労働に従事する人たちは(能力の低下とともに社会的な地位も低下するという)能力主義の虚構を認めてはいないから進んで体と手を用いる仕事に従事する。
ところが、著者ポール・ウイリスはだからこそ、労働者階級の中に精神労働と肉体労働の分岐が生まれ、さらには中産階級の地位(資本主義体制)を不動のものとすると述べ、同じ階層の中に分断が生まれる構造を明らかにしている。
これはいじめの構造と同じ・・・

 さて、憂鬱の原因を知れば希望が見えてくる。

教員は、産業の、経済の、そして階級分化の過程を、つき離しつつ醒めた目で見とどけなければならない。「教室の荒廃」や「校内暴力」―(それらを言い立てることれ自身が保守のイデオロギーを活性化する役割を果たしている)―にうろたえてなすすべを見失うのではなく、反学校の文化を社会的な文脈のなかに正しく相対化して認識し、対抗文化の担い手たちがその文化ゆえに長い将来にわたってどのような人生を引き受けることになるのかに思いを致すべきである。そしてそのことに思いおよべば、教員が今日明日の教室で教師としての体面を保てるかどうかなど、そう重大な問題ではないではないか。

 そう述べて、具体的な提案をしている。

他者に理解されることで自分自身を理解できるようになる
他者に受け入れられることは自分を受け入れること
どうしてこういう人間になったのかを理解することは
自分のハビトゥスを理解すること

これはブルデューの言葉だけど