身体の記憶としてのハビトゥス

とても忙しい日々、まさに師走だ
遅れていた寺割をやっとすませた
いつも遅れる年賀状はクリスマスイブの前に済ませた
一晩中雨が降っていたようだ

あれから「ハビトゥス」が気になっている。

ハビトゥスとは何でしょうか。それは、家庭や学校のなかでたたき込まれた性向、態度、傾向性です。つまりそれは、それまでの人生の履歴、蓄積なのです。私たちの態度や感情、そして身体には「履歴がある」のです。それは行為の中に蓄積された過去の履歴であり、学習と訓練によって長い時間をかけて獲得された身体の記憶です。

 ある人が一人の行為者であるかぎり、そこには必ずハビトゥスが備わっている。
ハビトゥスを持たない行為者は存在しない。
そして、

あらゆる行為者は合理的である。すくなくとも、その合理性をもっと広い意味で捉えた場合、すべての行為には理由があり、根拠があり、動機があります
・・・
私たちはすべて、それぞれが所属する界や場のなかで、私たち自身が信じる規範や価値にしたがって、自分たちの生を懸命に生きている

 私たちは、自分なりのやり方で自分の人生を「より良いもの」にしようと必死でがんばっている。

私がイメージできなかった部分を書いておく。

私たちは、自分で意図するかどうかに関係なく、卓越化を目指して闘争をしています。むしろ、自分たちが「闘争なんてしてないよ」と思えるぐらい自然なかたちで文化資本を身につけることができる階級出身の人々こそが、社会空間の象徴闘争でもっとも利得を得ることができる人々でしょう。彼らは、自分がいまのポジションにいること、他人が自分とは違うあのポジションにいることは「自然なことだ」と考えています。ブルデユーは、支配層のこうした見方は「現実の差異を自然化する」と言っています。

逆に「ハマータウンの野郎ども」を例にとる。
①マッチョな労働者文化の中で育った彼らには、じっとしていることは苦痛でしかなく、おとなしく座って勉強することなんかできないという価値観がある。
②彼らにとって身近な大人である家族や親戚も学歴が低く、ローモデルになる学歴の高い人がいないとなれば、教室で我慢してみんなに合わせて勉強する意味がわからない。
③彼らにとってグレてドロップアウトするほうが合理的。これは知的能力ではなく、ハビトゥスのレベルでの排除。つまり知的能力で排除されているのではなく、身についた文化によって、勉強するかしないか以前に排除されている。
④不平等な階級格差が、その下位の人々の「自由意志」によって再生産されている。

客観的なチャンスが存在しないところでは、主観的な野心も、初めから存在しない。

数日前までブルデューについて全く知らなかった。
それが自分の教育実践に大きな影響を与えていたことを初めて知った。
これこそ私に刻まれた身体記憶としてのハビトゥスだったのだ。