昨日は今年最後のプチ法話会
初めての方もいて7名の参加で楽しい会だった。
一形から、他力=空が空じていく力ととらえることができる。
でも、凡夫はそれを感じることが難しい。
だからこそ、仏の慈悲は何とかしようとした。
それが仏の願いであり本願力・信心であるという話をした。
帰りに本屋によって、NHKテキスト「ブリュデユーのディスタンクシオン」を買って読み始めた。
ついでに前日に紹介した「ハマータウンの野郎ども」を再読・・・といっても最後の乾彰夫先生の解説を読む。
二つの本をつなげると、
私たちはどれくらい不自由であるか
を明確に知ることが
私たちが自由になるための条件である
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高度成長期以降の日本は先進諸国の中で最もメリトクラシ―支配の貫徹した社会
メリトクラシ―支配とは
「ごく限られた者への上昇機会と引き替えに、万人に従順でひたむきな学習態度や勤労態度を要求するイデオロギー」
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それは、企業や組織で過労死を生み出すような能力主義的労働者間競争を浸透させるとともに、「公平な競争(同じ進学機会を)」を学校の内に創り出すことで、結果的には学校をとおして再生産される階級・階層間格差を、「個人の努力の結果」生じた「いわれある格差」として人々に疑問の余地なく受け入れさせることとなった。
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この幻想から彼らを解放する媒介となるのが「反学校文化」(ハマータウンの)
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ここから80年代以降の様々な実践が展開される。
⇓ (少し時間ができたので付け加えると)
校内暴力、いじめ迫害、中退、不登校などの「逸脱」を反学校文化に依拠しながら「家庭や学校から、さらにいえば現代的な支配から心理的に離乳しようとする思春期トラブルととらえたのが竹内常一氏。
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思春期の子どもたちは「非行・問題行動」のなかで、反学校文化へと自らを一旦ゆだねることで、「学校的価値」にとらわれた「子ども時代の自分」をくずす契機を探っている。
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そして、この対抗的自立が社会化されるための教育カリキュラム(対抗的自立のコース)を構築する必要があると。
この実践はまだ途中であるか、または意識されていない。