だますものとだまされるもの

最近、TVで数学を扱った番組をやっている。
数学がこんなに取り上げられるのはなぜだろう。
 
BSは見ることができないので、詳しくはわからないが、橋本愛が主演の「ハードナッツ」も数学を使って事件を解決する。ここでは数学は様々な問題を解決する万能の方法のようだ。
 
昨夜の「相棒」は素数が暗号に使われていることと、リーマン予想を解いたことが素数暗号に大きくかかわり、それは現代のネット社会に大混乱を巻き起こすということが殺人の動機だった。
 
リーマン予想素数と密接な関連があるが、それを解くだけでなくその奥に素数の神秘があって、
RSA暗号との結びついているということは想像(ドラマ)である。
そして、何よりもリーマン予想を解いてしまったら、それは大ニュースであって、素数の秘密よりももっと重要である。その意味では被害者の意見に賛成。
たとえ素数の秘密を解く数式を発見したとしても、発表した方が世界のためになるし、秘密にしておいてもすぐに誰かが発見する。
 
また逆に言えば、現代社会のネット社会では、個人情報の秘密が守られているのではなく、守られていると信じているだけだ。それは、理解できない高度な数学を使っているから安全ですとだまされているだけなのだ。アメリカ国家安全保障局NSA)による個人情報収集を見ると、めちゃくちゃである。
でも、それは私とは関係ないと考えてしまう。
 
天海祐希の「ボス」の時も感じたが、統計の分布を使って犯行の場所を予測するというのもあった。
インターネットで何でも分かるというのも数学の一つなのかもしれない。統計を使うことはあくまで仮説の積み重ねである。仮説を積み重ねるとそれが事実であるように思ってしまう。これはとても怖いことだ。
さらにどこにでもある監視カメラを使うと、神の視点を持つことになる。
 
さて、だらだらと書いてしまったが、本来数学はだまされないための論理・批判思考の道具だった。
もちろん、数学の世界が見えるだけの世界よりもはるかに広がりと意味を持ったものであることが明らかになってきたことは、精神世界と現実世界をわけることが難しくなってきていることを示している。
 
でも、頭の中でつくりあげたモノが、現実を縛ってしまうことが悪なのだ。
この伊丹万作の戦後すぐの詩は、今読まれなければならない。
 
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