念仏申さんと思ひたつ心の起こるとき

いろいろなことが重なって、ブログに書くことができなかった。
毎日ぎりぎりで生きていると感じる。
 
昨日の法話歎異抄第一条を聞いた。
 
  弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて
  念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづ
  けしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信
  心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんが
  ための願にまします。
 
この「念仏申さんとおもいたつ心のおこるとき」という言葉が
あらためて飛び込んできた。
「念仏を申した時」ではない。
「申そうと思い立つ心が起こった時」なのである。
 
私たちには念仏をしようという心は出てこない。
念仏しようとは思えない私たちがどうして念仏しようと思えるのか。
 
それは様々な縁の中で念仏をしようという心が出てくる。
おばあさんの念仏だったり、おじいさんの遺言だったり、
そして、それはとりもなおさず、仏の願いであった。
 
仏の願いはわが名を称えよであった。
それは私たちをいのちの世界へと誘う言葉であると同時に
私たちの生に意味を与えるものであった。
 
だから感謝の念仏となる。