ヘイトをする人たちの「主観的真理」は?

「主観的真理とは」についてオンラインで交流会を持った。参加者は8名。

というのは新しい言葉であり、難しくてイメージが持てないからだ。
どう定義したらよいのかと、一人であれこれ考えるよりもみんなのそれぞれの体験を聞いていると、何が問題で、なぜ大切なのか、どこに価値があるのか段々とイメージがはっきりしてくる。だから自分の言葉に置き換えることが出来るようになる。

まず、言葉について。
ビースタの本を訳した方から、私は
主観化(subjectificationを「主体化」と訳したと教えていただいた。確かに「主観的真理」は自分勝手な…ともとれる。「主体的真理」だと自らがつかんだという意味が出てくる。
さらに、新しい言葉ではなく大正期の野村芳兵衛などがすでに使っていたと聞いた。

私はこう思う。あなたはこう思う。ではどうする?

と問いかけ、そこから生み出される新しいことが主観的真理だと。
ビースタの言っていることは、100年前の日本の教師はすでに言っていたのだ。

若い実践家が「権利としての自治」や「教育としての自治」という言葉も自分の言葉で語っていた。

私たちの生活をより楽しく、より善く、豊かにしていくにはどうしたら良いのだろうか。そう考えて、自分たちでルールを創り出し、活動を生み出していくことが自治

これだと子どもたちに訴えることができる。

さて、この「主観的真理」という概念から次の問題が出てくる。
それは、ある政党の言っていることと出会った人が、自分の言いたいことを見事に言ってくれたと『主観的真理』としてとらえることもあるのではないかということである。
つまり彼の『主観的真理』に対して、私たちはどういう態度をとれば良いのかという問題が出てくる。

基調提案の中では、教師が子どもの「主観的真理」を共に探り当てている実践例を出している。そこでは教師は子ども自身が求めている「主観的真理」を共に探るべく働きかけている。
それが「ケア的な指導」なのだが、はみ出している子の苦しみが実は私たちにもあり、彼は端っこにいるはみ出し者ではなく、私たちの中にいる子なんだという実に粘り強い指導が必要となる。それは自由放任でもなく、一方的な押し付けでもなく、教師自身の自己変革を伴っている。

だから基調では次のように「主観的真理」を定義している。

『 ここでいう「主観的真理」を教えられるとは、ひとりひとりにとって、必ずしも自分だけではたどり着けないが、自分にとってとても大切なことに相手からの働きかけによって気づかされることを意味する。それはたとえば自分自身にとって受け入れたくない事実であることもあるが、容易には歓迎できないことを受け入れることができ、そのことをかけがえのない出来事として経験できるときに、子どもはその相手を「教師」として認めることができる。
 付言すれば、子どもをまるごと承認し、受け入れることが必要なことは多々あるが、それだけではケア的な生活指導にはならないし、子ども自身もありのままの自分を肯定できない。多くの子どもたちは、意識的にしろ無意識的にしろ、自分が今のままでいいとは思っておらず、今とは異なる自分になりたいと思っているが、にもかかわらず、そのために自分にとっての不都合な事実を直視することはできないという葛藤状況にあるからである。そのような子どもの葛藤に付き合わなければ、子どもが「自らの主観的真理」を受け入れられるようになるための「ケア的な生活指導」は成立しない。』

とすると、「私はこう思う。あなたはこう思う。ではどうする?」という対話しかこの問題を乗り越えることはできないと思う。それが如何に困難なことであろうとも。