おとなのEテレタイムマシン ETV8 授業巡礼 ~哲学者・林竹二が残したもの~
1985年に没した哲学者・林竹二は自ら全国の学校で授業を行い教育のありようを問い続けた。その実践は教育界に大きな衝撃を与えただけでなく授業を受けた青年たちを深くとらえた。定時制高校で授業を受け猛勉強を始めた少年。林の著作に触れ生涯の目標を教師ときめた少女など。晩年に訪れた小学校での授業風景や定時制高校卒業生の証言を軸に、人間にとって生きるとは、学ぶとは何かを考えてゆく。(1988年2月15日放送)
NHK+で目に留まって懐かしいと思って見た。
見ていると涙が止まらない。
実はこの授業のマネをして授業をやったことがある。
「蛙の子は蛙だけど、人間の子は人間だろうか?」という問いは永遠の問いだと思う。
アマラとカマラの本『狼に育てられた子』も買った。
その後、狼に育てられたのではなく、彼女らは障がい児ではなかったかという話も聞いたが、そんなことはどうでもよかった。林さんが伝えたかったことは、「生きるとはどういうことか」ということだったのだ。
科学的なエビデンスがどうのこうのではない。
林さんが講演で語っていたことを抜き書きしてみる。
「人間だけが自分の生き方を自分で決めることができる」
「教育というものは教師の力で子どもを変えることじゃないんです。
子どもの中には生命があって、生命というものは不断に自分を成長させ、
自分を変化させるチカラであるわけですね。
で、そういうチカラが働く場所を用意することが教育なんですね。
すばらしい際限がないというほどの非常にこまやかな、
しかも正確なそういう感受性を持った子どもが、
考えようもないくらい感受性の枯渇した教師によって
生殺与奪の権を握られているわけですね。
そして、学校で価値と認めているもの以外のものは
全部否定されちゃうんです。
そういう不幸というものの中に子どもを放置するわけにはいかない。
・・・授業というものを根本から考え直してもらえないかと、
全国の学校で授業してまわった・・・」
厳しいことを言っているが、「私は感受性が枯渇している教師の一人だ」
そう問いかけながら授業をしている。
もう一つ、心掛けなければなならないことがある。
それは、子どもを変えなければという思いが為せる傲慢さを教師が持ってしまうこと。
つまり、私の指導のおかげで、この子は育ったとか、成長したと思うこと。
逆に私には指導力がないから子どもたちは変わらないのだと考えるのも同じ傲慢さ。
このビデオだって「林さんが子どもを変えた」と思うと、誤った道に陥る。
林さんは哲学者だから、次のカントの言葉から上の言葉を導き出したのだろう。
「人間に自然の体系の中の位置をわりあて、人間を特徴づけてみると、次のことだけがきわだつ。すなわち、人間は自分で自己を創造するという特徴を持つということだ。
なぜなら、人間は自分自身で選択した目的にしたがって、自己を完成させる力を持っているからである。まさに、そのゆえに、理性をもつ可能性にある動物から出発して、人間は自己自身を理性的動物につくりあげることができる。」
これこそが、蛙の子ではない人間の子だけが持つチカラ。
ビデオに登場する生徒(学生)は自分の成育歴をふり返り、そして周りの級友と関わる体験から、それまでの自分を否定して新しい自分を自ら見出していったのだと思う。
林さんの「問い」はそれを促すきっかけだったのだ。
だから、このきっかけを作り出すのが教師の仕事ということになる。
変えるのではない、変わるのだ。
教師はその可能性に賭けるしかない。