理科の「のぼりおり」の授業計画を聞いて、『「問い」を大事にするか「認識」を大事にするか』という問いが浮かんだ。
「問い」も「認識」もどちらも大事だが、どちらに重点を置くかで全体の流れがかなり異なってくる。但し、どちらに重点を置いたらより効率的かということではない。
仮説実験授業の場合は「認識」を「討論」と「実験」によって深めている。
「のぼりおり」は現象から法則へのぼり、法則から応用へおりるという認識の運動。
電磁石の「のぼりおり」を見ていて、なぜ鉄にエナメル線を巻き付けて電磁石を作るのだろうと不思議に感じた。それで、当時の「科学者」たちの実験の方法を調べてみた。これらの発見が1820年に集中していることに気がついた。
偶然の出会いから様々な事実が次から次へと発見されていく。
そして、それらの現象を知って、再実験し、さらに新しいことが発見されていく過程がとても面白かった。
それらの発見は、本質の法則を捜し仮説を立て実験して得られるものと、偶然のモノとに分かれる。そして、情報を知ること・質問すること・実験すること・新しい発見・・・。これらは「共同的な行動」と「個人的な行動」が入り混じっている。
そもそも新しい発見をすると誰かに語りたくなる。
さらに、個人の発見が共同体の中で共通のものとして受け入れられる過程がある。
学びの共同体の「聞き合う関係」や仮説実験授業での「討論」と「認識」は、これらの共同的な行動を強調したものだろう。そもそも科学的認識は社会的な認識である。そして、それが真実であるかは実験が示してくれる。子どもたちは討論と実験の中で人類の発見と認識の歴史をたどっているのだ。
一方、個人として見ると、その現象を知って興味を持ち、さらに「問い」を持つという過程がある。そもそも「問い」によって世界が現われるのだから。
【指し示しの数学】第1章 「問い」とは何か?
・・・世界は指し示しとともに存在を開始する PDF(2015.1)
とすると、「知る→問う→確かめる」という過程は「個人の内面の学び」の過程を示しているが、「問う」は自分自身も他の人にも発せられる。
そして、「問い」を持ったとしても、それをどのように解決していったらいいのかは、やはり「学びの共同体」の中で身につけるしかない。
つまり、教師は「発問」を子ども自身の「問い」にしていかなければならない。
学校という集団(共同体)はそのために必要なのだろうと思う。
私が改めて感じたのは、共同体から個人へ、個人から共同体へと「のぼりおり」することの重要性だった。
解き方よりも問題自体を大切にすること ・・・学びは「わからない」ことから出発する (2024.1)
「問い」と「発問」と「問題」はどう違うの? (2012.7)
ただし、18世紀と違って
現代の子どもたちは、知るべき「知識」が膨大に増えている。
「知る」はAIに任せるとして、ますます「問う」「討論」「認識」が重要になってくると思う。それは「問う技術」と「考える技術」を高めること。
それにしてもエナメルを鉄にまいた電磁石はおもちゃとしてあまりにも面白い。
で、この玩具からモーターへと発想することはどういう意味があるのだろうか。
「自分にとって善いものとは、自分とうまく組み合わさってコナトゥス(活動能力)を増大させるものです。・・・それも自分一人でなく、できる限り他の人々と一緒に」